夏草の揺れる丘










子供が縋るような声だと、思った。
裾を引かれた訳でも、言葉にして引き留められた訳でもないというのに。


「こんごう」


ただその声だけが酷く寂しく悲しく揺らいでいた。































帰らないでと、そいつの人間性を理解しているのであれば大凡見当のつかない言葉が小さく漏れたのは、呼びかけに対し己が玄関先で振り返った時だった。
玄関から一本道でリビングに繋がっている構造の屋内で、秋山はリビングの出入り口付近の、壁に身体を寄り掛からせて佇んでいたのである。
リビングは明かりをつけているから煌々としていたが、玄関は蛍光灯のひとつも灯らずに薄暗い。その明暗の差もあり、尚且つ秋山自身が俯いていたものだから、その顔は見えなかった。
そもそも、秋山がそのような言葉を口にする事の、それ自体が珍しい事である。
酔っているのだろうか、問おうとして、止める。
酔っているとするなら無駄な問答であるし、そうでないとしても追及する権利は自分にはないのだと。
履きかけの靴を玄関先に放り、踵を返す。
自分からしてみればそう長くもない廊下をらしくもなく慎重に進むと、ギシギシと床が悲鳴をあげ訴えた。
秋山は動かない。俯いたまま、ちらりとも此方を見ようともしない。


「…秋山」


確認でもなければ、追及でもなく、ただの呼びかけに秋山は僅かに顔をあげた。
その眼は恐ろしくなる位透明で、深い。
黒のそれが一度瞬き、己を映し出したと思った途端、くしゃりと歪んだ。
それは子供が泣き出す寸前にも似ていて、先程よりもずっと近くなった距離から、赤くなった頬が見える。
熱を孕んだそこを撫でると、指先にじわりと熱が広がった。


「…飲み過ぎだ」


宥めるように呟くと、突如として、ふっと秋山が笑む。
何かおかしな事でも言ったかと思ったが、そうでもない筈だ。
反応を待っていると、無駄に声をあげて笑っていた秋山は二、三度肩を叩き、おやすみと呟いた。
それは帰宅を促すもので、冒頭の台詞とは矛盾したそれを聞き入れるべきかどうか解らなくなる。
居るべきなのかもしれない、と妙な使命感が沸き上がったのは、多分秋山が初めて弱音を零したからだった。
弟妹達は長兄である秋山を気遣いながらも各々が幸せになろうと頑張っている。それが最終的に長兄を喜ばせる事だと解っているかのように、其々が自身が幸せになる為の努力をしていた。
だというのに秋山は、一向に幸せになろうとする素振りを見せないのだ。
むしろ昔の、彼一人が施設を切り盛りしていた時こそが幸せだったとでもいうように、もはや住む者の居なくなった施設から頑なに出て行こうとはしない。
寂しくはないのかと、空っぽになった施設を一瞥してなんとなく呟いた。その時は深く考えていなかったが、秋山がどこか虚ろに微笑み、慣れればそうでもないと答えた時にそれが愚問である事に気づかされる。
亡霊のようだと、生きている人間をそんな風に思ったのは初めてだった。
目の前に佇んでいる筈の男が、今にも消えてしまいそうで、しかしただ縋るものの傍で消えないように必死になっているのだと。
帰る家がある事は、弟妹達にとっては幸福であろうとも、待つ側の秋山にとってはその限りではないのだろう。
抱いたのは、もしや同情であったのやもしれないが、放っておく事はできなかった。


「秋山」

「…良いんだ、冗談だから」


変な事言ってごめんね。
微笑みと共に紡がれた言葉は拒絶だった。
ちくりと胸が痛むのは何故だろう。
だが、と食い下がれば秋山は優しい微笑から一転して眉を寄せ、嫌悪するように顔を顰めた。
やはり酔っているのだろう、豊かな表情は久しく見るもので、あからさまなその表情に、責められた訳でもないのに腰が引ける。
暗く深い眼がじっと此方を見上げる。逸らす事もできず、自分もそれを見返す。
沈黙が続くかに思われた空間の中、ぽつりと秋山は呟いた。


「良いんだ、本当に」


その言葉を聞いた途端、肌の下を激情が駆け巡ったのは。
憐憫か、それともあまりの不憫さにそれでも何もできない自分の無力さにか。
秋山が一人でいる事を普通の事だと受け入れないように、頃合いを見て施設を訪れるようになったのは、秋山の存在の希薄さに畏怖を抱いた時からだったが。
今になって気づく。
それはただの驕りだったのだと。
秋山の為にと思ってした事は、全て秋山を傷つけていたのではないかと。
月に一度程度しか訪れる事のない自分を、秋山はどう思っていたのだろう。
押しつけがましいと嫌悪するだけならまだしも、更に秋山自身を貶めていたのだったとしたら。
飲み過ぎだと、先程己が言った言葉はもしかすると秋山にとっての拒絶だったのではないだろうか。
違うと、口をついて出そうになった言葉を寸での所で止める事に成功する。
己が辟易したのは、秋山が飲み過ぎて翌日にそれを響かせる事であって、現状に対しての責めではないのだと。
けれど今更それを伝えた所で秋山は快諾しないのだろう。
見かけよりもずっと頑固なこの男は、もう二度と弱音を零さなくなるのかもしれない。
人に重荷を科す事を、一等嫌うのがこの男だった。
そしてその代わりのように、いや当然というべきか、男は自己犠牲を自己犠牲とも思っていないのだ。


『……帰らない、で…』


あれが、最後通告だったのだと、気づいた時には遅かった。
今更手を差し伸べた所でそれはもはや秋山にとって救いにはならないのだろう。
そもそもその手が自身のそれを取ったとしても、最後まで秋山に付き合えるかと問われればそうではない。
自分には自分の生活がある。そしてもう、自分だけの人生ではない。
秋山にだけ気を回し、彼の為に生きる事はできないのだ。
それを秋山は解っているのだろう、解っていて、口にするのだろう。
言葉の裏に潜む棘がじくりと喉を突き刺し声を出す事を禁じるように深く深くを毒で侵す。
偽善者と、最後まで付き合う気もないクセにと。
見透かされた。自分自身気づいていなかった、その愚行を。


「っ…………なぁ、秋山」


努めて、平素と同じ声を出す事に意識を集中させる。
なぁに、と問う声はどこまでも優しく、どこまでも悲しい。
お前はずっと此処に居るつもりなのか。
時の流れと共にお前自身も風化していくつもりなのか。
普通の、なんて言わない。
ただお前にも幸せになって欲しい。
お前なりの幸せを掴んで貰いたいんだ。
そう願うだけでも、お前にとっては偽善になるのだろうか。

なぁ、秋山。

俺から見て、今のお前は幸せとはかけ離れた所に居るんだ。
もしもお前自身が、現状を幸せだと感じているとしても、それは夢想に取りつかれた亡霊のような生き方でしかない。
お前は生きているのに、生きて、今、笑っているのに。
俺の手を取れとは言わないから。
お前が幸せになれるなら、誰の手だって良いんだから。
だからそんな風に、何もかも諦めたような顔をしないでくれ。


「……こんごう?」


舌っ足らずな、子供のような声音だと思った。
状況も読めずに笑ってしまいそうになる。笑っている場合じゃないのにな。


「…何でもねぇ」


笑う。そうすればお前も。
踵を返して玄関に戻り、靴を履いて振り返ると、秋山は俯いていなかった。
柔らかい光を背景に、顔は見えない。
それでも、笑っているのだろう。
これ以上は踏み込むなと、他者への警告も兼ねた、その微笑は、悲しく、そして恐ろしい程に虚ろなのに、綺麗だと思った。


「また、来る」


呟きは、弟妹達の声も、何かの物音もないのだから、問題なく届いたのだろう。
それでも秋山は、それには答えず、バイバイ、と。

その手を、振った。
































夏草の揺れる丘

((一方的な約束でも、お前を生かせるなら))




























タイトルはBACK HORNの曲から。
「釈迦堂を」〜「生きる意志なのだろう」まで後半はいい方向だから(笑)
ノンケだから気づいても困るけど、秋山が欲しいのは金剛で。
金剛はそれを解ってはいないけど、自分には与えられないものだって事は解ってる。




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