赤の軌跡










今にも雨が降りそうな空模様を見上げながら、とうに通り馴れた道を歩いていると、路地を曲がった途端、子供が飛び込んできた。
鼻頭を押さえて此方を見上げる少女の瞳はやけに真っ直ぐで、妙に気圧される。
その後ろからやってきた親らしき男が頭を下げ、子供の手を引き今自身が通ってきた道を歩いていった。
少女は暫く肩越しに此方を見ていたが、やがて父親に笑いかける。
その手には、今にも零れ落ちそうな大きな林檎飴があり、少女は鮮やかな花模様の浴衣を着ていた。
音頭に合わせた太鼓の音に何となくそわついたが、興味のない事だと打ち切り、再び歩を進める。


今から足を向ける先を思えば、祭などという気分ではなかったのだ。

























硝子張りの戸を引くと、ガリガリと地面に擦れてけたたましく音をたてる。
家主にはこれが訪問を報せるのだろう。だとしてもあの男が出迎えにきた事などないのだが。
勝手知ったる我が家のように靴を脱ぎ捨て土間にあがる。
夕も暮れて外は薄暗いというのに明かりを灯していない家の中は外よりも目が利き難い。
板張りの通路を抜けて戸を引くと、庭に面した広い空間に出る。
祭は近くで行われているのだろうか、此処にも太鼓の音が僅かに聞こえてきた。
風流がどうのこうのだとか、よく解らない家主の趣向を考えるに、手入れをしているのだろう。整えられた草花を眺めながら歩みを進めると、抜け出た所にだらしなく寝そべる背中を見つけた。
途端、深く深く溜息を吐きたい衝動に駆られたが、それをした所で何が変わるものでもない上に、変わらない事実に苛立つに決まっているのだからとどうにか堪えた。


「…おい、来たぞ」


絞り出すような声色にも反応する事なく、寝そべる背中は規則的に上下する。
まさか本当に安眠しているのではあるまいが、わざとらしく足音をたてて歩み寄った。
それでも顔は向けられない。
自分より幾分か小さく狭い背中を足蹴にすると、そこで漸く訴えるように呻き声が零れた。


「……何だね、藪から棒に」

「…俺の声が聞こえなかったらしいからな。実力行使に出たまでだ」


眠りからは覚めていたのだろうが、その目は常よりも幾分か細められ眠たそうにしている。
その目が不意に、にんまりと三日月の形をとった。
この男がこういう目をしている時は全く以て良い事などないものだから、つい腰が引けそうになる。
かといって何も聞かない内に身を引く程、己も臆病ではない。


「……何だ」

「無視されて寂しかったのかね?飯炊き男」

「…どっちが藪から棒なんだか解らんな」


それから俺は飯を炊きに来ている訳じゃない、と返してやったがそれもどこまで聞いているものか。
そもそもこうして男の家に来る度、男が空腹に倒れているのがいけないのだ。
飯炊きをしていた手伝いの人間の都合がつかず、暫くの間は自身でやらねばならないと、そう言っていた筈の口が今では餌を待つ雛の如く空腹をピーチクパーチクと訴えてくるのみである。
飯が無ければ無いで、別に寝て過ごせば問題はないとでも思っているのか、放っておくと何も食べない男に目も当てられず食事を提供してしまったのがいけなかったのか。
男は胡乱げに身体を起こすと、みっともなく跳ねた髪先を指で弄りながら瞬きをした。


「お腹が空いた。何か食べに行こうではないかね」

「……食べに行く、だと?」


外食など面倒だと、そう言ってはゴロゴロと寝そべっていた男の言う事だとは思えない。
食事に対しての執着はないクセに、味の匙加減にだけは煩い男の趣向を叶える店は滅多にないのだから、当然と言えば当然の事であるのだが。
自分が作らなくていいというのはとても楽だったので、何処に行くのかと男に促す事に異論はなかった。
しかし次の瞬間、にんまりと笑う男の言葉に、言葉を促した事を後悔する事になるのだが。


「近くで祭がやっているようだからね。露店の物もたまには良いではないか」

「…………俺は、」

「勿論、行くのだろうね?」

「……………………………」


あぁ、だから嫌だったんだ、なんて。
今更な事を考えるも、それこそ時既に遅かったのだが。

























ゆらゆらと揺れる水面に街灯が煌く。透明な膜の向こうに赤が浮かび、ひらりと翻った。
それを見上げるように翳し、じいっと窺いながら進んでいく足取りは酔っぱらいのようにふらついていて危うい。
その進行方向に遠慮なく佇んでいる立派な電柱があるとも知らず、フラフラフラフラフラフラ……


「ちょっと待て」


耐えきれず背後から顔面をわし掴み後ろに引く。
頭部だけ後ろに引かれたからか、上半身が変に斜めの方向へ曲がっていて微妙な態勢だ。
それでも抗議の声はなく、その目は変わらず揺れる赤を見ている。


「そんなに珍しいのか」


思った事をそのまま口にするが、聞いているのかいないのか。
問答をしても成立しない事は解りきっていた為、舌打ちを残して空いた方の腕を引いてやる。
頭だけでなく、今度は腕だけが突っ張って前のめりになった。


「初めてやったが、金魚すくいとは楽しいものだね」


あれだけやればな、とは思っても言わない。
質問には答えなかったクセに、自分の言いたい事だけは口にする男にあてつけがましく溜息を吐く。
あれだけポイを破っておいて、それでも無尽蔵と言わんばかりに懐から金を出してはまたポイを破り続け。
それでも楽しそうな顔をして水中にポイを入れる男を止められず、出店の主人に煽られるまま自分も手を出してしまった。
男の財布の中には幾分の金が残っているというのだろう。
生活費はどこに貯め込んでいるのか金だけは沢山あるものだから、一定の物に対する浪費癖はいつまでも治らないのだろう。
無駄遣いはするなとこれまで何度も言い含めてきたが、それもどこまで聞いているものか。


「…………おい、飼った事はあるのか」

「うん?ある訳がないだろう。祖父が生きていた時には鯉を飼っていたものだが、池は土に埋まってしまったから掘り返さなければ」

「……金魚は池で飼うもんじゃないぞ。それにいきなり違った水に移すとそれだけで死ぬからな」

「そういう君は飼った事があるのかね」

「ガキの頃に少しな」

「ほう」


そう返せば、今度は此方に視線が移る。
らしくなく解りやすい反応が幼く、僅かに頬が緩んだがすぐに持ち直した。
こんな風に男に笑いかけるような間柄ではないのだからと。


「……家に金魚鉢があった筈だから、今度持ってきてやる」


だからこんなのは、ただの気紛れだ。
夜店の金魚なんざ長生きはしないぞ、と。
言おうとして、止めた事も。


ただの、気紛れだ。
















それから男が口にするのは殆どが金魚の事だった。
やれ金魚がどうしたのこうしたのと、金魚鉢を前に揺れる赤を目で追いながら話し続けて。最初の内はポンプやら水草やら砂利やらと世話をしてやっていたが、最初の一週間を過ぎてから初めての餌やりの際、好奇心も顕に餌をやり始めてからはすっかり金魚の虜になってしまったらしい。
美味い茶葉だからと金魚鉢に放り込んで、美味しいかい?などと笑顔で聞いている姿を見た時は慌てて金魚鉢に手を突っ込み金魚を間一髪で救出したり。
砂利だけではつまらないだろうと、色取り取りの飴玉を金魚鉢に入れ、楽しいかい?などとこれもまた笑顔で聞いている姿を見た時はまだ注意する余裕もあったがやはり金魚鉢に手を突っ込んだ。
むしろわざとやって金魚鉢に手を突っ込ませるのが目的ではないかと思える程のその回数に、何度声を張り上げた事か。
何となく痛むこめかみを指先で解しつつ、飯を作るのが日課となっていたある日。


「元気がないようなのだよ」

「……そんな事より、さっさと飯を食っちまえ」


鉢の表面をコツコツと指先で叩きながら、つまらなさそうに呟く。
寿命なんじゃないのか、とは夜店の金魚の脆弱さを理解している為に冗談でも言えなかったが。
新聞を捲るフリをしてちらりと目で確認した金魚の動きは確かに弱っていた。
紙面には小難しい政治家の記事があり、かと思えばその下には可愛らしいデザインの四コマ漫画が載っている。
ちぐはぐな新聞に元々用向きがあった訳ではないので、バサリと音をたてて畳、その辺に放り投げた。
改めて見ても、男はやはり飯には手をつけず鉢の表面をコツコツと叩いている。
殺害欲求に勝るとも劣らない食欲に打ち克つとは、それだけ金魚が心配なのかそれとも生物への探究心でも持ち合わせていたのか。
後者だとしたら初耳だが、人体を斬り裂き、その赤を眺め、果ては命の奏でる音楽に陶酔する男であるのなら当然と言えば当然の事ではある。


「………やはり」

「…何だ」


神妙な顔をして呟いた男は漸く箸と茶碗を手にした。
問いかければ、ふぅむとまた神妙な呻きを零し、飯を食い始める。
もごもごと口を動かし、咀嚼したのだろう。湯呑に口をつけ啜ると、一息吐く。
何も言わない所を見ると、今日の米の炊き方には何の文句もないのだろう。
その点に関しては、此方としても安堵の息を吐きたい所だ。


「精がつくようにと栄養ドリンクを入れたのが拙かったのだろうかねぇ…」

「またそんな馬鹿をやらかしたのかお前はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっっっ!!!」


失敗した。こいつには同情する意味がない。
放り投げたばかりの新聞を取り上げ、スパァンッ、といい音がする程に叩いたはいいものの、音をあげたのは机の端だった。
避けるなと言った所でもはや反射だと言われてしまえばそこまでだ。
冗談だよ、と呟く男に溜息を吐きながら丸めた新聞紙をまた投げ捨てて、自分の飯に手をつける。
渾身の、とは言えずとも此方の攻撃を避けた後には必ずといっていい程に揶揄の笑みを浮かべる男は、ぼんやりと金魚鉢を眺めていた。


(……まぁ、精々長生きしてやれ)


心中ではそう呟いたものの、その翌日に金魚鉢を覗いた瞬間、やはりな、とも思ってしまった。
泊っていきたまえという珍しい言葉に甘えて(家まで帰るのは距離からして面倒だ)過ごしたものだが。
朝食の準備をしている間に水の入れ替えをしてやるかと、覗いた時にはもう水面に赤が浮かんでいた。
これを見たら、あの男はどうするのだろう。
栓のない事を考えながらも壁時計を見上げた。
時刻はまだ朝の七時過ぎ。あの男はまだまだ起きないだろう。































赤の軌跡

(…………お腹が空いた。眠い。寝足りない)
(……お前は欲求を口にする前におはよう位言えんのか)
(……おや?この子は元気になったようだね)
(そうだな。随分元気だ)
(…………ねぇ君知っているかい?この子には額の所に小さな傷がついているのだよ)
(……そうだったか?気の所為だろう)
(……そうだね。そうだったかもしれない。さて、朝餉を戴けるかい)
































早朝からペットショップに行って似た金魚を探して買って来たワンコと。
金魚が入れ替わっている事に気づいているけれどそれが何故かは解っていないでも何でか追及できない憲兵。
金魚はごみ箱に入れると知られる恐れがあるのでワンコが後から庭の片隅に勝手にお墓を作ります。
金魚すくいはうちも駄目だって言われていて一度もやった事ないのですが、すくえなくても一匹は必ず貰えるそうですね。
夜店の金魚は長生きしないと言われていますが長生きするケースもあるらしいですよ。




あきゅろす。
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