無知が罪なのではない










小生は、病んでいるのである。




太陽が照らす道よりも月の隠れた夜道を。

遠く広がる青い空よりも薄暗い地の底を。




そうして暗闇に身を浸しかろうじて己を保っているような。

そんな欺瞞に満ちた俄芝居を繰り返し振い続ける己が剣を。


皮を裂き肉を抉り骨を断ち命を奪うあの感覚を忘れぬよう。



















「……おい」


不意にかけられた声に、パチリと瞬きをする。
数秒の間だろうか、一人思案に浸っていたのだろう。
怪訝な顔で此方を見る男に、掌を軽く揺らして何でもないのだと言葉の外で伝えておいたがそれもどこまで伝わるものか。
天気がいいからだと、返せればいいものだが外は生憎の雨であり、庭に面した草花は久方ぶりの雨水を嬉しそうに享受しているようでもある。
しかしながら我々人間からすると、雨という天候は時と場合にもよるが、今この時にすれば不都合この上ないのが実際の所であるのだった。


「…何ともない。何ともないさ」

「具合でも悪いんじゃないのか」

「君は少々心配症が過ぎるのではないかね」


口端がニタリとつり上がるのを見て、男は不愉快そうに眉をひそめてみせた。
全くもって解り易い男である。
しかし扱い易いからこそ、傍に居ても疲れないのだとも思えた。
心配させてるのは誰だと、よく解らない言葉が返される。
それは自身の事なのだろうか。
しかしながら、思い当たるような事はなかった。
ふむ、と彼にしてみればまどろっこしい前置きの声をひとつ零すと、やはりその通り、男の眉が更に歪む。


「それは、誰の事であろうかな?」

「…………本気で解ってないんだろうな、お前は」

「?」


脱力をそのまま表すようにあてつけがましい溜息を吐いたと思ったら、いやいいんだどうせ解りはしないんだろうからな、などと呟いた。
説明も無しに話を打ち切るとは、なんとも失礼な男である。


「…君の発言は、時折奇怪で小生には解しかねるのだがね」

「……お前が無頓着なのがいけない」

「小生の所為にするのかね」

「するも何も、お前の所為だ」


いけしゃあしゃあと、何を言うかと思えば。
一体自分が何をしたというのか。
男は、不機嫌というよりも若干呆れと、そして諦めが混じった風体で中庭に目をやった。
未だに外には雨が降っている。
見ていて楽しいものなど何もないというのに、男はただ外を見ていた。
それは視界から自身を追い出そうとしている行為にもとれて、これ以上会話を成立させるつもりはないのだという主張であるようにも思える。


「…………」

「…………」

「…………」

「……怒ったのか?」


それ故に、黙したまま時が過ぎて行けば、観念するのは大抵が男の方である。
今回もその例に洩れる事はなく、男は窺うようにチラリと此方を見やった。
おもわず笑ってしまいそうになったが、そういう状況でもないのだろう。
男の為、というよりは多分に己の為という理由が含まれたので、いいや、と簡潔に返してやった。
それを怒りと受け取ったのか、しつこく怒っているのかと再び繰り返される質問には、苛立ちよりもやはり微笑ましさの方が募るばかりである。
出来のいい狗よりは、多少馬鹿でも可愛げのある犬の方がいい。
特にこの犬は、馬鹿ではあれど賢くない訳ではないのだから極上の犬であると思っている。
まるで己との距離を知り尽くしたかのように、引いては押し、押しては引いて、時には激情に任せて押しつけがましい事をしてくるが、それも若さ故の未熟な部分と思えば、青臭さを笑って済ませる充分な理由に成り得た。


「……お前が悪いんだ」


まだ言うか、可愛い馬鹿犬め。
不貞腐れたような顔で呟かれた苦言など、痛くも痒くもない。
しかし、やはりその意を解せない己には、その言葉は深く鮮やかに響いてきた。
負の感情に満ち足りた風でならば、このような責めを受ける事は幾度となくあったが、男がそのようなものを籠めて口にする事が無いという確信がある。
ならばその意図する所は、包み隠す事のない真実であると言う事なのだ。
それに、目の前の犬は嘘偽り、謀が嫌いである。
戦うという点に置いて、戦略や策略は賢くも練るが、しかし劣悪な策を弄する事はしない。
だから馬鹿なのだと、だからあの夜の時仲間を失ったのだと、言っても解らないだろうから言ってはいないのだが。


(…成程。これでは同じ事か)


言っても解らないだろうからもう構わないと男は言ったのだったか。
しかしながら尚も言い募る所を見ると、自分よりはずっと情に厚いのだろう。
いや、自分と比べる事が既に間違っているような気もするが、引き合いに出せる人間というのも少ないのが自分という人間だったのだから致し方があるまい。
執着する人間は作らない、そして執着される事もないようにと。
それこそが強さであると。
美しい音色を聴く為だけに、強さを求めた。
己の心に響くのは、その音色だけだったのだから。
命が奏でるは、素晴らしき旋律。
それこそが己という人間の根底であり根幹であるのだと。
だからこそ、求めたのだ。
そうして、求め続けるのだ。


「……小生は悪い事などないと思うのだがね」

「……そう思いたいのなら思っていれば良い」


だが、俺は。
そこまで言って、男はまたむっつりとした顔で黙ってしまった。
しかし先程と違い、目を逸らす事はない。
真っ直ぐに此方を見て、そうして今度はその手が伸ばされたので、その手が動く所を自分は馬鹿のようにぼんやりと見つめ続けた。
さらりと髪に触れたのは男の手であり。
無駄に装飾品を嵌め込まれたその指がじゃれるように髪先を軽く引いたかと思えば。


「許さないぞ、お前を」


そんな事を言って、いつの間にやら縮めた距離を尚も縮めるように顔を寄せてきた。
許さないとは、一体何をだろうか。
許さないとは、一体何様だろうか。
何も悪い事などしていない…とは言い切れなくとも。
男に恨まれるだけの事をしている自覚があろうとも。
其れと、男の言っている事とは違うような気がして。
やはり馬鹿のようにぼんやりと男の口づけを受けた。
口づけというにはあまりに荒々しいそれは獣の食事に等しく、このような時にしか出ないような、息の詰まった声が形にならぬまま鼻から抜け落ちる。


「……っ…身に覚えが、ないのだが」

「……なら、今覚えろ」


髪先を緩く引いた指先は、顎を捉えて唇の表面を撫でる。
意図的に鋭くされた爪先に僅か傷ついた皮膚からほんの少しだけ赤が染み出る。
それを舌で舐めとる男の眼は、既に捕食者の其れでありとうに己の犬ではない。


「……許さないからな」


またそう言って、男は縋るように己の肩を抱いたのだった。


(……許さない、か)








小生は、病んでいるのである。




太陽が照らす道よりも月の隠れた夜道を。

遠く広がる青い空よりも薄暗い地の底を。




そうして暗闇に身を浸しかろうじて己を保っているような。

そんな欺瞞に満ちた俄芝居を繰り返し振い続ける己が剣を。


皮を裂き肉を抉り骨を断ち命を奪うあの感覚を忘れぬよう。




何時何時の日か、この身が暗闇から戻れぬ程黒く汚く醜く淀んでしまっても。

何時何時の日か、この身が地の底から這い上がれぬ程他者の血に染まっても。

何時何時の日か、二度とこの目が覚めずとも、この世に帰れなくなろうとも。

誰も自身に執着せず、そして干渉せず、忘れ去られる事それこそが望ましく。


けれどもそのまま朽ち果てる事は本能が拒否をし心が恐怖に落ち往くばかり。









(……許さないで欲しいと言うのは、少々残酷なのだろうかねぇ)









光と闇の狭間、繋ぎ留め続けようとする犬は、きっと己が其れにどれ程救われているのか、解ってはいないのだろう。
































無知が罪なのではない

(無知のままで在る事が罪なのではないだろうか)
































心の感覚が麻痺するまでとことん傷つかないと、人を傷つける事に最初から何の躊躇いもない人間ってのは居ない気がします。
憲兵はそこん所(自分の感覚が麻痺しててどうしようもない罪を犯してるって事)をしっかりきっちり解ってるといいです。
でも別にそれで罪悪感を抱く訳じゃなく、ただ事実としてもう戻れない事も受け入れてて、でもワンコはそのまま楽になろうとしたら許さないぞって引き留めてる。
解らないフリをしてるのは憲兵で、解っていないのはワンコの方だったりする…だから憲兵的には、知らないワンコより、知らないままで居ようとする自分が悪いって自覚をしてる、みたいな…そんな事を書きたかったのですがね(汗)




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