天秤はどちらに?
「成程生きていたのかね。それは誠に重畳」
そう言った男の顔は、本当に喜んでいるのかどうか解らないような無表情であったので。
いっそ狂気に満ちた笑みをその顔に張り付けていたならばまだ何か言い返せようものを。
いっそ侮蔑を含んだ上で憎々しげに言ってくれたのならばこちらも過剰に返せたものを。
「生きていても死んでいてもお前にとっては何も変わらなかったんだろう」
思い出した訳ではないが、随分と昔の事を口にしたのだと思う。
呑気に愛刀の手入れをしていた男はその問いを何でもない事のように聞いていた。
太陽が煌めいている訳でもないのに、室内の灯りだけで刃が輝くのはそれだけ鋭利なものであるからか。
打粉で刀身を軽く叩きながらも、男から答が返る事はない。
愛刀の手入れをしている時の男には、余程の事がない限りまともな対話など望めたものではなかった。
同じ部屋に居るというのに、男と男に手ずからで作られた『作品』とが隔たりを創ってみせる。
こういった時は大抵自身は黙ってそれを見ているか、席を外すのだが、あんまりにも愛おしそうに刀身を眺める…というよりは、恍惚と見つめているものだから、ふと湧きあがった悪戯心から横槍を入れてやりたくなったのだ。
男はやはり、というべきか、何事も口にはしないのだが。
となれば、これから打粉を拭いとり、油を塗り込み終わるまで…最悪、柄と刀身を外す所までは答など期待できないのだ。
暫くは退屈な時間が続くのかと、陰鬱とした気分で欠伸を零す。
するとどうだろう、男は細く息をつくと、手入れ途中の筈である愛刀をその場に置いたのだ。
「無意味な事だとは思わないかね」
そうしてポツリと零されたのは、なんとも明確な意思が掴みづらい、そして内容に等しく聞き逃してもおかしくはない小さな問いかけだった。
むしろそれは問いかけと言うよりも独白の意を含んでいたのかもしれない。
男の眼は変わらず白光を射す刀身から逸らされていないのだから、おそらく男の意識は半分だけ此方に向けられているのだろう。
それだけこの話が男の好奇心や遊び心を刺激するのかと不思議にはなったものの、自分から切り出した話を今更捨て鉢にすれば面倒な問答は避けられないだろうし、答に窮したと思われるのは少々癪であった。
「…俺の質問が無意味だっていうのか?」
「そう言われればそうでもあるし、ややもするならばそうでもないとも言えようが」
「……そのややこしい言い回しはわざとか」
「小生は至極真面目に取り合っている心算だがね」
再び男の手が柄を握り刀身を抱え上げた。
妙な所で話を切るなと咎めるつもりだったが、男はそこで話を終えるつもりはなかったのか、小生は、と口を開いたものだから、咎めは形にならないまま複雑な感情が沈殿した心を波立たせるだけに終わってしまう。
「あれこれ惜しむ事は、無駄であると思っているのだよ。万事は万事、事を終えてから悔やむものだからね」
「……その話と俺の質問に何の関係がある?」
「為すべき事は己の目の前に自然と用意されるものだとは思わないかい?少なくとも、小生からすれば、あの夜はそのようなものだったがね」
あの夜、とは。
初めて己と対峙した日の事を言っているのだろう。
油塗紙で刀身を撫でる男の背中には何の感動も動揺も見えない。
ただ事実を事実として反芻しているだけのように見える。
四種類の刃を組み合わせている、直線的ではない刀身の手入れは傍目にも手間がかかるが、男はその手間を惜しむどころか、そうして手塩にかけて我が子を育てようとしている風に見えなくもない。
「あの夜、君が死のうが生きようが、粛清という小生の任には何の違いもなかった。其れを判断するのは上の人間であるのだし、小生は其れに対して全く興味が無いのだから、何の違いがあるというのだろうか」
兵は兵でしかないのだから、上からの命令を利く事に何の異論があろうかと。
そう言いながら、油の塗り込みを終えたのか、今度は小槌のような(確か目釘抜きといった)道具を取り出し、柄の部分を弄り始めたようである。
男の肩が細々と動くのを眺めながら、それでも話が続いている事になんとも不可解な違和感を感じた。
それは、本来なら滅多にある筈のない状況下に突如放り込まれたからだろうか。
しかしながら、話し始めたのは自らの方なので、突如という言い方にはやや異な部分がある。
「ただ」
カチリ、カチ、カチ。
金属のたてる音に紛れて、またポツリと男が呟いた。
しかし今度のそれは問いかけではなく、本当に、ただ呟いたというようなそれであり、しかし先述の呟きよりずっと強い響きを帯びている。
金属音が絶えたと思えば、拭い紙と油塗紙を交互に取る掌は、手入れの最中だからこそ外される手袋の下に常日頃隠されている真っ白なそれだった。
何故だかそれに、胸がザワザワと落ち着かない心持にさせられる。
それを解しているのかどうかは解らないが、男は変わらず愛刀を見つめたまま話し続けた。
「ただ、兵とて人。個としての人にならば、其れを納得するか、それとも他の選択肢を得たかったと不満不平を洩らすのか、それ位の権利は与えられても良いのではないかと思っているのだよ」
「…………で?」
結局は何が言いたいのか。
解らずに、そのままを返せば、数秒の間を経て溜息が言葉の代わりだと言わんばかりに聞こえてきた。
やれやれだとか、そんなような言葉が微妙に聞こえてきた気がするが、ただでさえ手入れ中の会話に更に水を差す事はある種の自殺行為であるのでじっと待つ事にする。
「…………本当に解らないのかね」
「…………だから何が解らないって言うんだ」
「…………」
「…………おい、残念そうな顔で俺を見るな」
向けられていた背中が僅かに動いたかと思えば、男が憐れむような眼をこちらに向けた。
薄暗い黒の眼がキョロリと動いて捉えたのは己でありそうしてその眼はあくまでも憐憫を浮かべている。
少々の苛立ちをそのままに相手へ押しつけると、男は浅薄だとまた憐れむように呟いた。
「…小生は、君の質問に答えた心算なのだが」
「俺の質問?」
「解らないのならば、解らないままでいるがいいよ。憐れな駄犬」
「あわっ、だっ…!?」
カチリ、カチ、カチ、カチンッ
手入れを終えたのか、金属音が再び部屋に響く。
柄の先をポンッ、と軽く叩くと、脇に寄せていた鞘に煌めいていた刀身が納められた。
「憲兵番長としての小生に其れを問うのなら、小生の答は君に副えないが」
刀身を納めた鞘を床に置くと、男は漸く真正面から自身へと向き直る。
その顔に浮かぶのは狂気の笑みでもなければ侮蔑のそれでもなく。
「伊崎剣司という一人の人間としての意を問うなら、君が生きている事は幸いだったと言っているのだよ」
「……っ…そ、それはつまり」
「生きていたなら再び死合えるのだからね」
「………………あぁそうだよな、お前はそういう人間だったな」
にっこりと笑うのは、確かに狂人変態サディストのそれだった。
天秤はどちらに?
(……ねぇ君、先刻から何を拗ねているんだい)
(……お前の基準は結局あぁなんだなと再確認したら色々自信が無くなっただけだ)
(何を大袈裟に言うかと思えば。必要だという点では君の意に副っているではないか)
(お前の場合の必要は『死合う相手として』だろうが!何処に俺の意見が含まれてるんだ!?)
これでも目一杯甘くしたつもりなんです(ぇ、言い訳は要らないって?)
あぁうん、憲兵はワンコが生きてたら「斬る対象が増えたなぁ(ウットリ)」って恍惚としそうだなぁと…(ぇ、変態?)
一度で二回お得な気分にはなると思うんですよね…あぁ、ワンコ気の毒(貴様)
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