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 昼も中頃とはいえ生い茂る草木によって薄暗がりとなった森の中、籠を背負った若衆が一人。
 閉じているのかと思わせる程の細い眼以外に然して挙げるべき特徴もなく、凡庸極まりないその姿はだからこそ鬱蒼とした森の中に居るには不自然としか判ぜられない。
 迷いのない足取りは時折止まり慣れた手つきで山菜を籠に放り入れてはまた歩き出し、そしてまた止まっては…を繰り返していた。
 若衆の名を、如月左衛門。
 常ならば共に父親の姿がある所、何故に一人で山菜集めに精を出しているのかと問われれば、それは正しく父親である男が消息を絶って久しいが故といえよう。
 恐らくは、いや確実に彼の男は死んだのだと里の大人達が言っていたのを左衛門は知っている。
 忍たる者、その骸を何処其処の誰に見つかるようではただの恥晒し、死する時には息絶えるその間際まで己が顔を切り刻むなりして身元を解らぬようにするのが忍の心得の一つだ。
 だからこそ、死んでしまった時には縁者にその訃報が届く事など滅多にない。
 運が良ければ、共に任務へ当たった忍が回収するものの、単独の任務とあらば殆んどが消息を絶ったままとされる。
 父は死んだのかと、左衛門は誰にも問わなかった。
 問わずとも勝手に耳に入って来る、というのも理由の一端ではあるが、元より病床の中に在る母と、人の死など判別もつかぬ幼子の妹を気遣う気持ちの方が強かったのだ。
 わしが居ない間はお主がこの家の主じゃ、と。
 家を空ける間際笑いながら左衛門の頭を撫でてくれた父の大きな手のひらの感触はもう何処にも残ってはいなかった。そして父が消息を絶ってから後十月が経った頃、元より病弱だった母は父の後を追うように逝ってしまったものだから、左衛門は悲しみに暮れる暇すら与えられなかったのである。
 父の行方は知れず母も病に亡くなって、左衛門に残されたのは幼い妹が一人。
 世話をする傍ら任務に務めていれば悲しみすら忙殺されるというものだ。畑仕事や狩りをしようにも、左衛門一人では手が回りきらない上に、妹の世話も見なければならないものだから限度があった。任務をこなす事で漸く己と妹二人分の生活は賄えていると言っても過言ではないだろう。
 勿論、周囲の大人たちが助力を惜しんだ訳ではない、だが裕福な家ならともかく元々貯えが少ない家々に収穫が少ない年が重なれば助力するにも限度があった。
 如月の家系はその忍法故か特に目立った功績もなく貯えも少なかった事を知ったのは、皮肉にも父が居なくなってからの事である。父や母はいつも笑っていたし、食いっぱぐれる事などなかった左衛門にしてみれば両親が如何に苦労し子供の己らを養ってくれていたのか、よく解った。
 その恩返しもできぬままに二度と会えなくなってしまった両親を思うと胸こそ痛むが泣き暮れる事は許されないと己を律している内に左衛門は涙を流す機会を逸して此処まで来てしまったのだ。
「……ふぅ」
 一つ、息を零す。
 里から距離のある道程は左衛門に疲労感を与えていたが、父親と共に来ていたのはこの辺りが主であった為に、他所の採集場を知らぬ左衛門には致し方がない事であった。鍛錬の一つにもなるが、幼い妹を人に預けたままというのは若干の不安もありなるべく早く済ませなければと左衛門は額を拭いつつあともう少しだけ奥にと歩を進めかけた所で徐に後ろを振り返る。
「……」
 おおい、おおい、と。
 呼びかけと同義の声が耳に確かに響いたのはそれから間もなくの事であった。左衛門は己の身なりを見下ろしてから、対面するに相応しからぬ恰好ではない事を確認した後応えるように口を開く。
「此方にございます。風待様」
 しっかりとした口調で投げた声は、確かに相手方へ届いたようで、また暫くの後に左衛門の頭上にてがさがさと葉音が響き落ちたかと思えば、次には軽々とその目前に一人の男が降り立った。
 まるで蜘蛛のように丸々と膨らんだ背中を持つその男は、にかりと快活に笑むと、左衛門の頭を無造作に掻き撫でる。
「探したぞ、左衛門よ。よもや斯様な場所まで来ていたとは思わなんだ」
「これは、申し訳ございませぬ。近場ではもうあまり山菜もありませぬ故」
「いやいや、まだ若いのに大したものじゃと褒めておるでな。謝る必要はない。ところでな左衛門よ、山菜ならば多少分けられる故、今すぐにでもわしと里に戻ってくれまいか」
 弾正様がお呼びじゃと、告げられた言葉に左衛門は俄かに眼を見開いた。しかしそれも本当に僅かな間であり、次には平素と変わらぬ体で厳かに頷く。
 頭領である弾正からの呼び出し、つまりは頭領直々に任務の申し渡しをされるという事。
 それが何を意味するのか解らぬ程左衛門は鈍くなかった。
 その面持ちにはほんの僅かな緊張の色が浮かんでいたが、伝達役の男はそこに口を出すつもりなどなく、ただ「うむ」と頷き返すと、一頻り左衛門を眺めた後に切り出す。
「ちと急ぎ故、抱えて参るがよいか」
「…重くはございませぬか」
「丈助よりはずっと軽いわい」
「……左様で」
 丸々と豊満な身体をした若衆の名を出されては、左衛門も渋る訳にはいかなかった。
 幼き頃から知られているとはいえ子供扱いをされてはどうにも歯痒い。とはいえ、男に任せた方が早く里へ戻れるのは言われるまでもなく知っていた左衛門は、せめて誰の眼にも触れぬようにと祈りながらもそれを顔に出す事なく頷いた。
「かたじけのうございまする、風待様」
「いやはや、近い内には将監と呼ぶ事になるやもしれぬぞ」
 男―――風待将監は、これは愉快と声をあげて笑った。
 左衛門は愛想よく微かな笑みを唇に乗せてみせたがこの後頭領との間で交わされる話に考えが至るとやはり頬は上手く動いてくれない。
 あまり気負うでないぞ、という将監の言葉に左衛門は今度こそ笑い返す事ができなかった。






   ******





 将監に連れられるがまま弾正屋敷に踏み入った左衛門は、けれども当然の如く一人で目的の部屋を訪れた。案内される途中にて「地虫の所で待っておるわ」と廊下を逸れ馴染みの友である男の部屋へと向かっていった将監の背中を瞼の裏に抱える事で緊張を誤魔化しながらも、部屋の前に立った瞬間中から入室を促す厳かな声が響いた事で、左衛門の頭の中は自ずと冷えていく。
「…失礼致しまする」
 片膝をついた所で障子に手をかけると部屋の中には二人の男が座していた。
 一人は甲賀一党の頭領である甲賀弾正、そしてその横の、やや後ろに控えているのは参謀役と謳われている室賀豹馬である。
「将監を迎えに寄越したが、会うたか」
「はい。この身は未だ若輩故、手ずから送り届けてくださりました」
 対面に座し、深々と平伏した後にかけられた言葉へと返す左衛門の口調に淀みはない。任務とあらばいくらでも他人を偽り、欺く事ができようが、相手が甲賀一党の頭領となると話が違う。内心は緊張から己が妙な切り返しをしていないか、不安で一杯であった。
 それでも斯様な心の揺らぎを見せて此度の申しつけがなくなりでもしたなら、左衛門は己を何度殺しても足らなくなるだろう。
 左衛門一人だけを、それも弾正が直々にとなれば、上手くすれば十人衆入りへの足がかりになるやもしれぬ事だ。
 十人衆ともなれば、与えられる任務の量も格段に増える、つまりは糧が増え生活が楽になる。
 結局は金の為かと言われればそこまでだが、自分一人ではどうにでもできる事でも幼い妹はそうもいかないのだから誰彼が何を言おうが左衛門は気にかからなかった。
 両親はもう居ない、だからこそ自分が妹を護ってやらねば。護ってやりたい。どうして見捨てる事ができようか。
 だからといって、己の行為を正当化するつもりなど左衛門には毛頭なかった。ただ見も知らぬ他人よりもずっと家族である妹の命と生活が大事なのだと、心からそう思うばかりだ。
「弾正様より直々の御呼び出しとあり此度参上仕りましたが、如何な御用命にございましょう」
「うむ…察しはついておろうがお主にある任務を請け負うて貰いたい。無論、単独でじゃ」
「っは」
 速まっていた鼓動が徐々に落ち着いて行く感覚は妙なものであった。
 急速に静まって行く鼓動を、どこか遠いもののように聞きながら、左衛門はじっと弾正の顔を窺い見る。その眼には、もはや年相応の彩色は非ず、一人の忍としてただただ冷めた双眸が覗いているだけだ。
 それを弾正は、満足げに眺めて返した。
 憐憫などというものはこの場にはない、忍として、如何に忍らしく在るか、それだけが問われている。
「――――――男を一人、消せ」
 仔細は、簡単に言ってしまえば暗殺であった。
 何処其処の誰彼とまでは弾正も言いはしないが、それでもある程度ならば左衛門に情報を与えるつもりもあるらしく、とある名家の者であるが、と続けて見せる。
「聞けばその男、好き勝手色を漁っておるとのこと。いずれ責を求めて駆け込んでくる者も居るやもしれぬ、そうなってしまえば御家の恥、面目が立たぬ、とまぁ斯様な相談が持ち込まれた次第よ」
「…如何様にも、手段はございますが」
 縁者からの任務依頼だと言うならば、消し方にも何某かの条件がついているに違いない。そう睨んだ左衛門が問えば、そこよ、と弾正が快活に笑った。それは、若い忍の着眼点に感心したというより予想通りの反応が返った事を面白がっているものであったが流石にそこまでは左衛門にも解りようがない。
 どうにも楽しそうであるなぁと他人事に眺めながら弾正の返しを待てば、実はのう、と声が零れた。
「暗殺という手段を用いて人の口に噂が立ち上るとも限らぬ。出来得る限り消息を絶つという形で決着をつけたいそうじゃ。例えば、手を付けた陰間と駆け落ち、というようにのう」
 つまり死んだ事が表沙汰になっては困る人間、という事か。となれば幕臣の何れか、もしくはその縁者という事になるのだろう。今や幕府に召し抱えとなっている服部が処理をしていないのだとすれば、身内であると言っているようなもの、その上このように甲賀にまで依頼が回って来るという事は、既に闇に帰すべき案件だと言っているようなものだ。
 一体何処の誰であるのかなどと好奇心を疼かせる猫の首を手折った左衛門は平素と変わらぬ声を零す。
「私は、何をすれば」
 この場に於いては当然と言ってもいいであろう問いかけに、弾正は一度重く頷き横に座した男へ目配せをした。心得たとばかりに僅かに顎を引いた男は、左衛門よ、と低く静かな声にて意識を引く。
「お主には、男を相手取る房中術を覚えて貰う」
「……房中術、にございまするか」
 あぁ、やはり。
 色を漁る男、陰間と駆け落ち、と聞いた時点で若干は先が読めていたものの、こうして言葉にされるとどうにも遣る瀬ないものだ。とはいえ、騒ぎ立てる事でもないだろう。諦めにも似た息を細く吐き出した左衛門はその場凌ぎの平常心を胸中に強いながらそれ以上の言葉を喉奥に押し込んだ。
 女ならば、女ならばまだ良かった。既に房中術の稽古は女相手とあらば済ませているので今更誰彼に指南を請う必要もない、すぐに任務に赴く事ができただろう、鍛錬の為に設けられる期間や相手を思うと憂鬱だ。
 それに正直、男に抱かれる事を想像するだけでも吐き気がしそうだったのである。
 だがそれも任務ならば致し方がない。
 人を殺す事に罪悪感が湧かないのに抱かれる事に嫌悪感を抱くというのも身勝手な話だ。
「任務の内容はわしも聞き及んでおる。陰間茶屋に通い詰め、色若衆にしか興味を持たぬ男が此度の任務対象とな。なれば、此度の任を我らの代の者に任せるは無理な話」
 それで若衆の中でもそれなりに腕の立つ左衛門を選んだという事なのだろうか。眉尻を浮かせた左衛門は、徐に豹馬の顔を見た。盲目と知っていても、その眼は真っ直ぐに豹馬の瞼へと注がれている。左衛門の視線が見えているとばかりに微笑んだ豹馬は、左衛門よ、と穏やかな声を紡いだ。
「はっ」
「何か申したき事あらば、今申すがよい」
「…では。見目ならば、刑部の方がよろしゅうございますが」
「霞刑部か。確かにあれは見目がいい。だがあれは男の下で耐え忍ぶには向いておるまいよ」
「……」
 成程、確かに。
 内心でのみ、左衛門は豹馬の言葉への同意を示した。見目こそ麗しい若衆である刑部は左衛門とは同年代の忍である、けれども若衆の中で最も直情的で若干向こう見ずな所があるのも彼である事は事実。
 それに加えて、刑部の忍術を実践へ活かすには未だ本人の腕が足らないのだろう、姿をそのままに、地面や壁へと溶け込ませられる霞一族の術は、けれども武器を持つ事ができぬ事からまずは腕力や脚力などを鍛える所から始めるらしい。
 今の刑部は左衛門に少し勝る程度の力、あれでは大の男の首をへし折るには未だ足らないのだ。
「もうひとつ、よろしいでしょうか」
「よい」
「陰間に成り済まさずとも、その男が手をつけたと知られている陰間を一人消してしまえばようございませぬか」
「確かにお主の言う通りじゃ、それが最も迅速、且つ確実。なれど、それもまた条件に含まれておってな、男以外の者を傷つける、これを良しとはせぬ、と」
 なんとも面倒な話ではあるまいか。暗殺の依頼をしておきながら、他人を巻き込むのは御免被るとでも言うのか。
 内心は不快感があったものの、左衛門とて忍。おいそれと感情を外に出す筈もなく、では、と一度区切りをつけた声は常と変わりないものである。
「私を呼ばれたのは、我が術が故にございますな」
「さればこそ。他人に成り済ますのにこれ程の適任は二人と居るまい」
 術、という点だけで言えば、左衛門の術は他人の顔を借り受けるといったものだ。見目麗しい若衆の一人でも居れば、すぐにでもその顔を映す事ができる。
 確かに造形の好みばかりは千差万別。
 だが対象の男が単純に美童を好んでいるのならば少しでも美貌を持ち合わせた者を差し向けるのは必定であろう。
 左衛門ならば、見目麗しい者さえ用意できればいくらでもそれに化ける事ができるのだから、選出された理由としては確かに納得のいくものであった。左衛門の場合は刑部と違い武器を隠し持つ余地が残されているという点も理由の一端に含まれているのだろう。
「他に、何かあるまいな?」
「御意に」
「では話を戻す。ついてはその指南役にわしが相成った」
「室賀様が…?」
「身近な者ではやりづらかろうという弾正様の御心遣いじゃ。それにわしは盲人。美醜が解らぬからこそ性技が試されるというもの。鍛錬に要す為頂戴した日数は十日となっておる」
 唐突な申し渡しに、思わず困惑からちらりと弾正を窺った左衛門は、真っ直ぐに見返されて若干怯んだ。その眼は真剣そのものであり、左衛門の困惑など範疇の内であると言外に述べているようでもある。
 確かに如月と室賀の家は、家名だけ見れば同じ中忍だ。
 それ以上の格差などはない。
 とはいえ、豹馬は頭領の孫の叔父である、つまりは頭領の縁者と言って過言ではないのだから、軽々と頷く訳にもいかないだろう。
 加えて、左衛門は未だ歳若く豹馬とも気軽に言葉を交わす程の功績を立てた訳ではなかった。
 確かに、若衆の中では腕が立つと、年相応になった暁には十人衆に選ばれるやもしれぬと、皆が言ってくれるが未だに功績を残していない内ではそれもどこまでが真実であるのか解らない。
 此度の事にしても、忍術を見込まれての任務の申し渡しといえどもやる事は色で男を落とすだけのもの。
 元より他人に己の任務を明かすのは忍のやる事ではないが、胸を張れるか否かといえば後者でしかないだろう。
 そのような任務の為の鍛錬にまさか豹馬が指南役を務めてくれるとは考えも及ばなかった左衛門である。
「何か不服があるか、左衛門」
「いえ、いいえ、不服などとは……ですが私のような若輩に斯様な手間をかけてまで…」
「任務を全うするが忍ぞ、何を手間と思おうか」
「……なれば、これ以上は何もございませぬ」
 確かに豹馬の言う通り、これは弾正の心遣いであるのやもしれない。これが逆に身近な間柄の者を、などと言われれば左衛門とて今以上の躊躇いがあっただろう。
 実際に房中術の訓練として褥を共にした女の顔など、今はもう左衛門の心に欠片も残ってはいなかった。
 豹馬とて、その例外ではないのだろう、それを思えば些か気も楽になろうというもの。
 常から顔を合わせる事など稀、名と顔こそ知ってはいても言葉を交わした覚えも数えられる程度のものでしかなかった。
 褥を共にしたとして、確実に感じるであろう気まずさすらその場限りで済むに違いない。
「この如月左衛門、まだまだ未熟者故。室賀様にご指導の程、お願い致しまする」
 頭を垂れた左衛門に、豹馬が頭領を仰げば、弾正は声なきままに頷きを返すのだった。









   ******






 陽も暮れかけた頃合いになった里は、濃厚な赤に染まっている。朝焼けに比べればずっと恐ろしいその色は、けれども小さな手のひらを握っている左衛門に何の感情も抱かせない。
「あにさま!」
「うん?何じゃ、お胡夷」
「今日は風待様が高い高いをしてくださいましたっ!」
「そうか、それは良かったのう」
「それと地虫様が甘いお菓子をくださいました、美味しゅうございました」
「お礼はきちんと言うたか?」
「はいっ」
 左衛門の幼い妹、名をお胡夷。母に似たおかげでその顔は左衛門と違い艶やかなものをしている。ぽちゃりと膨らんだ唇は淡い桜色、表情が豊かなのも相俟ってこれは将来引く手数多の美人になろうというのが将監や地虫の見解であった。
 紅葉のように小さな手のひらを、左衛門のそれがきゅっと握る。
 背丈の差から肘を折る余裕などもなく、伸ばしきりとなるお胡夷の腕が引き攣らないようにと、至極緩やかな足取りで二人は家を目指していた。
 日によってお胡夷を預かる人間は変わる。
 皆が皆、毎日のように暇を持て余している訳ではないから当然の事ではあるが、お胡夷を預ってくれる大人達の中でもその割合が多いのは地虫十兵衛という男であった。
 四肢のない身体を持った面妖な御人ではあるが甲賀の頭領である弾正からの信頼も厚く、また将監とは旧知の友である事から左衛門も安心して頼る事ができる相手である。
 地虫はその身体の特異さ故に、常に世話役の下人を幾人か侍らせている為、好奇心の塊と言ってもいい年頃の幼い妹を預けても手が回りきらぬという事もないだろう、などという下心がある事は否めなかった。
「そうじゃ、風待様といえば山菜を頂戴した、夕餉は豪華になろうな」
「お、お胡夷は山菜があまり好きではございませぬ故…」
「好き嫌いを申すは童子ぞ」
「お胡夷は童子ではありませぬ!山菜が美味しゅうないのが悪いのですっ!」
「……ほぉ、そうか。それは困ったのう。斯様なことでは、陽炎のようにはなれぬぞ」
「なんと!」
 山菜や沢庵よりも猪の肉や岩魚を好むお胡夷には左衛門も呆れてしまう。
 だがそれもお胡夷が密かに憧れている女子の名を挙げれば矯正が可能であった。
 里一の美女と謳われる母を持つ陽炎はお胡夷よりは年が上だが十分に幼い。年齢から考えれば未だ少女と言ってもいい年頃であるのだが既に大人びた艶やかな色香を持ち合わせている。
 将来が楽しみであると言われてはいるが、彼女は母親同様男を確実に殺める術を持ち合わせている為、先々苦労もあるだろう。
 しかしお胡夷は同性である事も起因してか陽炎と仲が良く、慕っていると同時に憧れているのだと言うのだ。
 男から見れば恐ろしくとも確かに同じ女子であるのならば、大人びた色香を持つ彼女に憧れを抱くのも無理はないのだと左衛門は納得していた。
「陽炎に先日聞いたが、あれの好物は新鮮な山菜だそうな」
「それは誠にございますか、あにさま!」
「おぉ、誠じゃ。されば、山菜も食べねばのう?お胡夷よ」
「……っ……た……」
「た?」
「…た、食べまする…!」
「うむ。その意気じゃ」
「うぅ……」
 まるでこの世の終わりとでも言い出しかねない悲壮な顔を笑って、左衛門は空いた手でお胡夷の頭を撫でてやる。
 あにさまの意地悪、などという苦言が零れたが拗ねた顔が笑いを益々煽るだけであった為に左衛門は敢えて何も言及はしないでおいた。
 後々陽炎には口裏を合わせて貰えるように言っておかねばと思いながら、お胡夷の身を案じての偽りを誠に変えるべく奔走するのは苦ではないとも思う。
 食べられるものは食べられる内に、特に未だ幼い妹には、出来得る限り食べさせてやりたい、そんな事を思うのは親心にも似ている。
 この齢でもう親の心地かと、苦笑は内心でのみ済ませて、左衛門は改めてお胡夷の小さな頭を見下ろした。
「……のう、お胡夷よ」
「はい」
「わしは明日から、任務の為の訓練に出かける事と相成った。とはいえ訓練は夜のみじゃが、十日の間夜分は家に帰れぬ」
「……はい?」
 あぁこれはどうやら理解していないようだと、くりくりと丸い眼が不思議そうに瞬きを繰り返す様を見て、軽い頭痛を覚えた左衛門はそれでも平然と見つめ返す。
 理解する前に全て言い聞かせてしまおう、などとあくどい考えが見透かされているようで胸が痛むが、とはいえこれは避けられない事なので致し方がないだろう。
「その間は、お主は風待様の家に預けられるが、安心せい。夜だけの事じゃからの。我慢できるな?お胡夷」
「……夜?」
「そうじゃ、夜、わしは、出かける。お主は、風待様の、」
「嫌にございます!」
 言い聞かせるように敢えて細かく区切って話してみれば、想像通りの反応が返って来た。
 打てば響くとはこういう事だろうか。
 恐らくは、というか、確実にごねるであろうと考えていた左衛門にしてみれば解りきった反応であったのがせめてもの救いと言ってもいい。
 ぎゅうっと手のひらを握る力が強くなった。年の割に随分力のあるお胡夷は、その幼さ故に加減を知らない。
「嫌ですっ!嫌です嫌ですっ!」
「待て待てお胡夷。今までにも任務で同じような事があったであろうが」
「一日だけにございます!十日というのは長すぎまするっ」
「夜以外はいつも通りじゃ。何も変わりはなかろう」
「お胡夷はあにさまと一緒に眠りとうございます!」
 そら来た。
 童子ではない、と言いきった先刻の様子が嘘のような事を然も正論とばかりに言い放ったお胡夷の顔には自信ばかりが浮かんでいる。己が間違った事を言っているなどとは欠片も思っていないのだろう。その真っ正直さと素直さを羨ましく思うが、しかしこれに絆されてはいけないのだ。
「見苦しいぞ、お胡夷。童子ではないのであろう?」
「童子ではございませぬが…でも…!」
「でもも何もない。此度の任務では、訓練は免れぬ。それ故お主の言い分も聞いてはやれぬのだ。許せとは言わぬぞ」
 代わりに耐えろと言うのは随分と酷な話ではあるが、それでも左衛門にとっては可愛い妹の為にする事であるのだから本当ならば快く送り出して貰いたい位なのだ。
 それでもそれを告げないのは、お胡夷が強情になった意味合いも十分に理解できているが為。
 親という温もりをなくして久しいお胡夷は、それ故唯一の家族である左衛門に縋って眠る事が多々ある。寝つくまでは一人でも大丈夫だと言い張るのだが、眠りにつけば無意識に温もりを求めて左衛門の方へ擦り寄ってくるのだ。
 それを思えば今のように「一緒に眠りたい」と言い出したあたりお胡夷の必死ぶりが窺えるというもの。
 不意に、握られていた手のひらが離されたかと思えば腰に思い切りどんっと衝撃が走った。
「…お胡夷」
「うぅ〜…」
「全く……」
 衣越しにこもった唸り声。お主は獣かと、苦笑しながらも左衛門は小さな頭を撫でてやる。
 癖のついた髪は、けれど指先で梳けば引っかかる事もなくするりと抜けて柔らかい。まるで逃さないと言わんばかりにしがみついた妹を黙って抱き上げてやると今度は肩口に顔を押し付けて唸った。
「上手くいけばお主に御馳走を食わせてやれるやもしれぬ。たまには美味いものが食いたかろう?」
「…おっ…お胡夷はっ……あ、にさまの…作ったものなら…何でもようございます…!」
「毎日山菜だけでもよいのか?」
「よ、いですっ…!」
「それでは、わしが困るのう」
 じわりと着物が湿ったが、左衛門は咎めなかった。仄かな温もりを感じながらその背を軽快な調子で撫で叩き緩やかに歩き出す。
 ひくっ、うっく、と絶え絶えにしゃくりあげながら一向に泣きやまないお胡夷にそれでも左衛門は謝る気などなかった。
 今度ばかりは、お胡夷に我慢を強いてしまうと解っていたのだ。解っていて任務を受け入れた、生きる為に。お胡夷を生かし、お胡夷と共に生きていく為に、必要な事なのだ。
「わしは岩魚の方が好いておる故、毎日山菜は御免被るぞ。お主も山菜は嫌いなのだろう?」
 お胡夷が言いたいのはそんな事ではないと知りながらも、左衛門は話を続けた。腕の中で小さく頷く気配にそっと笑う。
 左衛門が居るならば毎日山菜でも構わない、山菜を好いていない妹の大言に頬が緩むのは性根が悪いからか、それとも兄馬鹿に過ぎるのか。
 恐らくはその両方だろうなぁと、一人ごちた。
 腕の中のお胡夷にはその意味など解りはしないのだろう、眦に雫を持て余したまま、大きな眼が不思議そうに、されど恨めしそうに兄を窺うだけである。
「おぉ、そうじゃ、お胡夷よ。任務を終えたら一日ずぅっとお主と居よう。山菜採りも何もせず誰にお主を預ける事なく共に居よう」
「……ずぅっと?」
「おうとも。此度の任務、終えればそれなりの見返りがある。一日お主と遊び呆けても大丈夫じゃろうて」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、食いついてきたお胡夷に笑いかければ泣いた事によって紅潮した頬が更に真っ赤になった。
 歓喜か興奮か。恐らくはそのどちらもだろう。
 途端に華やいだ表情に対し、左衛門は敢えて、逆に困惑の顔を作ってみせる。
 お胡夷が不思議そうに瞬くのが見えた。
「あぁいやしかし困った、此度の任務断らば終ぞお主とは早々遊んではおれぬなぁ」
「えっ!」
「これからずぅっとお主を預けて畑を耕さねばなるまいて…はてさて如何したものか…」
「あっ、あにさまっ!」
 如何にも困り果てたと言わんばかりに首を傾げる左衛門の頬を、お胡夷の小さな手のひらが摘まむ。むにりと加減なく引っ張られたそれに漏れそうな苦悶の声を引っ込めながら、左衛門は妹の名を呼んだ。
「何じゃ?お胡夷」
「お胡夷は、童子にございませぬ故!一人寝も平気です!」
「では、風待様の家でよいな?」
「はい!」
 意気のいい返事に爛々と輝く瞳。
 その双眸には「一日ずぅっと、あにさまと遊ぶ」といった文字が浮かんでいるように見えたが、恐らく幻などではないだろう。事実お胡夷は、遠いその日を既に明日へ控えたかのように顔を緩めていた。
 後々、将監の家へ実際に預けに行った時ばかりが若干心配ではあるが、今この時においては一応の納得を見せたと言えよう…しかし。
(……思惑通りとはいえ、こんなに単純で大丈夫だろうか…)
 忍の卵にしては、随分と解りやすく釣られてしまった妹の今後がどうにも思いやられる、と。
 左衛門は思わず、引き攣った笑みを零した。






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