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 ワノ国からやってきたという旅人から以前に聞いた覚えがある言葉が、近頃はよく脳裏に浮かぶようになったとチャカは思う。
光陰矢の如し。月日が過ぎるのは早い、という意味らしく、光が日を、陰が月を指しているのだとか。
放たれた矢の如くあっという間に過ぎ去り、そして放たれた矢は二度と戻って来ない事を時間とかけているのだと聞いた時は、成程異国の人間は上手い事を言うのだなと思ったものだ。
まさかそれを実感する事になるとは、思わなかったが。
 長きに渡る内乱も、年数として算出すればたった三年のものだった。
たった三年、されど三年。
苦渋に満ちた日々は片手で数えられる程度の物だとしても心身共に疲弊していた。それは人間にしても国にしても同じ事であり、反乱終結からまだ一月しか経っていない今も尚爪痕は色濃く残っている。
 国の中央を流れるサンドラ河、その沿岸の修復に着手しようと声をあげたのは国民からであり、国主の心からの感謝の言葉と共に修復作業は開始されていた。資金不足に関しては、近々世界政府から多額の寄金が与えられる事になっている。内乱の手引き、及び国盗りを目論んでいた者が世界政府内でも地位のある七武海であった為か、サー・クロコダイルの私財を国の物として扱うようにと沙汰が降りたのはつい先日の事だった。
クロコダイルはレインディナーズというレインベースでも最大級のカジノを経営していた事もあってか、その財産は一人の人間が所有するには多額に過ぎているし、その全てを政府の懐に入れても世論に波風が立ってしまう。
世界政府、引いては海軍が一国の危機に対応できず、海賊に助けられたという事実を世間へ出さぬよう事実を揉み消したと知る王族に対し、譲歩せざるを得なかっただろう事は想像に易い。国の危機を招いた人間の私財など本当ならばいい気分はしないが、とはいえ背に腹は代えられない。
意地を張る事と、誇りを持つ事では、その意味合いは大きく異なるのだから、アラバスタの為になるというなら使える物は使うべきだ。
「チャカ、此処に居たのか」
 背中越しに投げかけられた声に振り返ると小脇に書類の束を抱えたイガラムが佇んでいた。
チャカはそれまで伸ばしていた腕を一度下ろし、何でしょうと厳かに応える。
 ユバやエルマルなど、オアシスを起点とする町の復興の為、過去の症例と照らし合わせて対策を練ろうと書庫に来ていたチャカの足元には。既に革張りの分厚い本が五冊程、積み上げられていた。
それを見て取ったイガラムはといえば、調度いいとばかりに微笑み抱えていた書類をチャカに差し出してみせる。
「ユバから報告書が届いていたぞ」
「これは…ご足労をおかけしました」
「いや、私も物のついでだ」
 受け取るチャカの顔に労りを含ませた笑みが浮かんだ。
イガラムもチャカと同じように、何かしらの文献を求め脚を運んだのだろう。未だイガラム自身も傷が癒えきってはいないというのに、なんとも働き者過ぎる隊長だと、浮かんだ笑みに苦いものが滲みそうになる。
「どうだ、オアシスの方は」
「えぇ。ユバに関しては、一番の難である人手不足の問題はないようですよ」
 元々反乱軍が拠点としていた場所であっただけあり、反乱軍の何割かはユバに居を構え、復興作業に参加しているそうだ。
反乱軍が出て行った後にもユバに残り、ひたすらにその地を守ろうとしてくれたトトからの報告書は、老年の男らしく礼儀正しい時季の口上から始まっていた。少し目に挟んだだけではあるが、その文面には悲壮さなど欠片程も存在していない事が読み取れたので一先ずは安心と言った所だろうか。
物資の調達に関しては後程手配するとして、まずエルマルに派遣する部隊を編成しなければならない。
ともすれば人手不足は深刻な問題だった。アラバスタの首都、王宮が存在するこのアルバーナですら戦場と化した結果、王宮護衛隊の兵士も家族の為に一時職務から離れているのだ。さて、エルマルに幾人の人材を割く事になるのか、それを考えるだけでも頭痛の種ではあるが文句ばかり言ってもいられない、疲弊しているのは自分だけではない、何よりこれは国を再生させる為のものなのだから。
 国とは人だ、人が国を作る。
だからこそ、この国は以前よりも強くなるのだろう。
「何かあれば私に言え。それと、あぁいや、言う必要のない事だったか」
 何が「必要のない事」なのか、それはイガラムの言う通り、チャカに正しく伝わっていた。それ故に無駄な問答もせずに、チャカは一言「御意」と返して口角を上げて見せる。そこには若干苦いものが含まれていた。それが誰に対する物なのかなど、イガラムとて問うまでもなく知っている。
 用向きは本当にそれだけだったのか、ではな、と言ったきり奥の方へ足を向けたイガラムの背中を見送ったチャカは取り出した五冊の本にもう一冊上乗せし、それと共にイガラムから受け取った書類を落とさぬように抱え歩き出した。
 廊下へ出れば緩やかな風が頬を撫で、薄暗さすら感じていた室内から転じて明るい日差しに目を細めていると、向かいから侍女達が歩いてくる。先頭に立つのは老齢の女性で、ぴたりと足を止めて綺麗な会釈をしてみせた。その後に続く者達は幾分若さが見え、一度チャカを見る目を瞬かせてから慌てたように頭を下げてみせる。どうやら新入りの教育中のようだと察したチャカは、然して気分を害するでもなく小さく笑いながら会釈して足を進めた。
 護衛兵だけを残して、給仕を行う侍女は最小限にするとして内乱中は暇を出されていた者達が次々と戻って来た宮殿内は、内乱の時とは打って変わった賑わいを見せている。無事に生き残った兵士に、戻って来た侍女が涙ながらに抱きつく所などを見た時は、囃し立てる連中の気持ちも解らないでもなかった。
 誰が死んだとしてもおかしくはなかった、ともすれば全員が死んでいたとしても不思議でない状況下だったあの戦場では、こんな日常は想像すらできなかったのだから。
 そんな風に感傷染みた事を考えていると脳裏に一人の男の姿が思い浮かんでしまって、抱えている資料を部屋に置いたら顔を見に行こうかとチャカは唇を呆気なく緩ませた。



 書庫から持ち出した本を執務室の机へ置き、エルマルへ送る先遣隊の采配を終えた段になって、チャカは漸く目的の部屋へ足を運ぶ時間を作る事ができた。
 木製の戸を甲で軽く叩きながら声をかけると、中から女性の声が返ってくる。近頃になって聞き慣れたその声は反乱が終結してから宮殿に呼び戻された侍女のものだ。
「これは、チャカ様」
「すまない。ペルは今起きているだろうか」
「えぇ、先程昼食を済ませられた所です」
 少々お待ち下さい、と微笑んで奥へ戻って行く侍女の声は、鈴のように軽やかで、耳によく馴染む。
「ペル様、チャカ様がいらっしゃられました」
「あぁ、通してくれ」
だがそんな彼女の呼びかけに応える男の声の方が、チャカにとっては美しく感じられるのだから不思議なものだ。
 戻って来た侍女に促されるままチャカが部屋に入ると、気を使った侍女が遠回しに席を外す用向きを口にした。
アラバスタでは守護神と崇められているジャッカル、そしてファルコン。その化身とすら言われている二人が共に居る事は珍しくもないが、そこに第三者が居る事は王族と二人の上官であるイガラム以外にはなかなかありえない事だった。
別段二人が席を外すように言う訳ではないのだが、周囲の方から気を使ってくる以上わざわざ引き留める事もないだろうと甘えているのもまた事実。
「身体の方はどうだ。ペルよ」
 侍女が部屋を出てから、チャカは改めてペルの方へ向き直り、そして次には目を丸くさせた。
「……」
「……」
「…勝手に取るんじゃない。手癖が悪いぞ」
「目につく所に持っている方が悪い」
 あぁ言えばこう言うとはこの事か。
 いつの間にか、ペルの手にはエルマルへの先遣隊の編成書類。恐らくはチャカが侍女を見送る為に振り返っていた間に抜き取ったのだろうが、問題はそこではなかった。
 書面に目を落としていたペルは、一通り読み進めてからその眉間に皺を寄せる。
「エルマルならば、俺が飛ぶ方が速いぞ」
 あぁやはり、とチャカの口から溜息が洩れた。
 何だその溜息は、と見咎めたペルからの問いには曖昧な笑みで返す。
 確かにペルが飛んで行けば、視察として成立する上に迅速な対応が可能となる。しかし、ペルの身は未だ快調とは言い難い状態なのだ。
 それを当の本人が自覚していない。いいや、これはもう自覚する以前の問題だった。
「何故わざわざ隊を編成したんだ。俺に言ってくれたならすぐエルマルの状況を見に行くというのに」
 つまりこれが、先程イガラムの口にした「言う必要のない事」である。人手が足りていないこの現状をペルが知れば、すぐにでも職務に復帰すると言って聞かなくなるのは明白だった。
チャカがすべき事はペルに現状の人手不足を出来得る限り知られぬようにする事であったのだが、隊の手配を済ませて、すぐにペルの部屋を訪れたのは完全に自分の不手際だった。
チャカはせめて今度こそ知られぬよう細く息を吐き出すと、案ずるなとペルを宥める。
「療養を申しつけられている人間を駆り出す程ではない」
「怪我人であるお前は身を粉にして働いているのにか。それは妙な話だ」
「爆弾を抱えて飛び立つなどという無茶までしておいて、これ以上心配をかける必要もないだろう。少しは大人しく養生して周りを安心させてやろうとは思わんのか」
「…俺にとって、王家の守護は義務ではなく、誇りだ」
 ぽつりと、ペルは零した。そんな事は言われるまでもなく、チャカとて理解している。
義務感だけでは命を賭けられる筈もないのだ。
 だが、己が口にした事もまた事実。一度は生死不明となり、周囲が死を受け入れかけた頃になって戻って来た男は、それがどれだけの安堵と、それに並ぶ心配を与えているのか解ってはいないのだ。
 侍医の言う事に頷きはするものの不満げな表情を隠さないペルに、護衛隊隊長であるイガラムから目を離さないようにと命ぜられているのは何もチャカだけではないだろう。
 目を離した途端すぐにでもその身を空へ投じかねない男のオーバーワークはもはや常の事であり、それが重傷の身の上となれば放っておける筈もなかった。
「お前の心遣いを蔑ろにしたい訳ではないが、今は休め。最もお前が必要だという肝心な時に、動けないとあってはそれこそ困ってしまう」
「俺はそんな事には…」
「ならないとは言い切れまい。精神と肉体は必ずしも同位ではないのだからな」
 逸る気持ちに身体がついていかない、という事は間々ある。
 逆に、感情が肉体を酷使する事に耐えさせる場合もあるが、それは後々になってその身を滅ぼしかねない。
 それ故に、ペルには充分な休息を取った上で職務に復帰して欲しかった。そう願うのはチャカだけではない。
 それだけ己が周囲に必要とされているのだという事を、当のペルが違った角度から解釈するのがいけないのだ。
 確かに人手不足は深刻な問題であり、チャカを含め負傷した兵士までもが多忙を極めている現状ではあるが、ペルのような重傷者にはその限りではない。
ペルだけが特別な訳ではないのだ。
「……」
「解ったなら休息に励んでくれ」
「眠っているだけの事を、励むとは言わないだろう」
 言葉がおかしいのはチャカ自身も思った事だが、そこで漸くペルの表情が緩んだからそれで良いとも思う。
 難しい顔つきはいつもの事で、その顔が笑みに彩られるのは特定の相手に限るのだと知っているから、その変化を目にする事のできるこの瞬間をチャカはペルにも言わずに大切にしていた。
 出来得る事なら、その頬に手を伸ばしたいとも思うのだが、こうも陽の高い内からではそういった触れ合いをする事にもいい顔はしないだろう。
「何だかんだ言っておいてどうかとは思うが、隣を見ても隼が不在ではどうも調子が出んのだ」
 とはいえ、感情が肉体に追いつかないように、肉体が感情を追い越してしまう事もある。自然と伸びた手のひらは、ペルの頬の感触を確かめるように撫でた。
 平素から体温の低いペルの頬は己の指先に比べれば冷えていて、その頬に触れるのが久しい事を容易に思い起こさせる。
 思えば、内乱の情勢が切迫していくに連れてこういった接触から遠退いていたのだ。
触れたいと思っても致し方があるまい。
「………おい、チャカ」
「外ではないのだから、良いだろう」
 咎めの意を含んだ呼びかけに、チャカは笑って応えた。
 友人としても、そしてこの国の守護神としても、付き合いは長いが、その一線を越えた仲である二人の関係を知る者はそう多くはない。自ら言い出した訳ではないが、察しのいい国王や互いの上官たるイガラムにはすぐに知られてしまっていた。
 当時は過剰に接触を嫌ったペルも、どちらかの私室となれば多少の余裕を見せるようになり、今この時とてその条件からは外れていないだろうと思っていた、のだが。
「止せ…そんな気分ではない」
 やんわりと、けれどもその先を許しはしない声と手つきで、寄せた身体を押し退けられる。
 その顔は赤らむでもなく平素と同じ色合いで、羞恥や倫理的要素からの拒絶ではないようだった。
 珍しい事もあるものだと瞠目したチャカは、だがペル自身の意思を無視してまで口づける程利己的な男ではない。気に掛けさせぬ程度の声の軽さを意識して小さく謝罪し、身を離せば、それを目で追っていたペルが不意にその焦点をずらした。
「ペル?」
「……」
 突然黙ってしまったペルの顔に、明確な感情の色は浮かんでいなかった。チャカの言動が不愉快だというのならペル自らがそう口にしているだろう、思った事を内に溜め込むような浅い付き合いではない、例えばその思考が論争の種となろうとも、何事も打ち明けられるからこその相棒であり、恋人なのだから。
 広がり続ける沈黙に居た堪れなさを覚えたのはどちらが先だったのか、閉じていた唇を開き、ペルはそっと呟いた。
「…………花」
「ん?」
「花は、好きか」
「…随分と突然だな」
「いいから、答えろ」
 花、と言っても、この砂の国アラバスタではそもそも植物がその身を生き永らえさせる事すら稀であり、オアシスの周辺であるならばともかく砂漠では滅多に見る事も叶わない物だ。
希少価値から換算された額は庶民が手を伸ばせるものではなく、それ故に綺麗に開花する事のできたものは貴族の嗜好品という印象が強い。
 そもそも、武に重きを措く戦士であるチャカには程遠い代物だった。それはペルにも言える筈で、加えて言ってしまえば、チャカが「花」を好いているか否かなど想像できる範囲内ではないのだろうか。
「香水が苦手なのは知っている。花なら、大丈夫だな?」
「あぁ。普段から五感を駆使している訳ではないからな」
 捲し立てるような問いに首を傾げながらも、チャカは律義に頷いて見せた。
動物系の悪魔の実を口にしたチャカは、その種類が犬である事から常人とは比べ物にならない五感を有している。それ故、常時身に纏う香水は感覚を麻痺させるので厭っているのだ。
 だがそれが花となれば話は別である。これまで鼻を突き刺すような悪臭を放つ花など見た事はないし、何より花の香は香水とは少々違い儚い印象があった。
鼻先を寄せてまで嗅ぐ事のないその香は、部屋の花瓶にでも差さっているのであれば嫌悪する必要もない。
 だからチャカは、ペルの問いに改めて答える意味も込めて、好きな方かもしれん、と答えた。何よりペルの部屋にはいつも見舞い客からの物であろう花が飾られているので、香に慣れたと言っても良いかもしれない。
 それを聞いたペルは、しかし肯定的な意見を耳にしたというのにどこか堅い顔つきでそうかと零した。













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