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Prologue

 灯りをつけていない廊下は薄暗く、けれども扉を縦にして作られた窓硝子から差し込む光が、せめてもの慰みのように二人を照らしていた。淡い光から作り出された影は伸びる事なく、互いに孤立したままそこに在るばかり。
 まるで夢のようだと、どこかで誰かが囁いたようだった。
「……距離を、置くべきだと思うんだ」
 恐ろしい程に物音一つしない静まり返った室内で、互いを見つめ合う二人の眼差しに陰りは見られない。とはいえその焦点はぴたりと合わさっている訳でもなかったのだが片側が微かでも確かな逆光に目を細めているのなら当然の事だろう。ずれたピントは修正の意図なくしては合わさる事などありえない、それはこの状況そのものに対しても通ずる事だったのやもしれない。
「……解った」
 目を逸らす事なく言葉を紡いだ秋山に対し、金剛は神妙な顔で頷いてみせた。
 秘め事は惜しむように交わされる。
 こめかみにそっと触れる唇を拒む事はせず、けれども受け入れる事もせずに、秋山は金剛の背が扉を潜り見えなくなるまでじっとその場に佇んでいた。
扉が閉まる。ガチャンと派手な音をたてたのは金剛が力を入れたからではなく秋山が特殊素材で加工した為に重々しい造りとなった扉だからであって、決して金剛が力を入れた訳ではない。
 ただ秋山には金剛の背中が密かな怒りを宿しているように思えた為か、扉が閉まると同時に肩が僅か震えた。
「っ、」
 反射的に、秋山の身体は前に進み冷えた玄関に爪先を触れさせる。蹴った靴が壁にぶつかって小さな抗議を物音にして表したが秋山には届かない。扉の取っ手に触れた所ではっと目を瞠り、秋山は自己の意識をそこで取り戻したかのようにだらりと腕を垂らした。扉の表面に背を預けずるずると座り込むと頭を抱えるようにして膝頭に額を擦りつける姿は親に置いて行かれた子供のように見える。
「……っ」
 冷えたタイルの感触。
 ぺたりとついた手のひらに砂利が纏わりつくのも厭わずに秋山はそれを握り込んでじっと衝動を堪えた。
 窓硝子からは先程顔を出したばかりの太陽が光を注ぎ込み、秋山の動作によって舞った埃は乳白色に輝いてみせる。
 その輝きの一部は僅かな陰りに遮られていた。
 扉の向こう一枚の物質を隔てた所で、金剛は引き返すべきではないのかと自問する。扉を開け、おそらくはもう私室に下がっているだろう秋山を問い質し、いいや、問い質す事はできずとも衝動のままに抱き締めてしまいたいと。
 ただ、この関係がこれからの戦いに支障をきたすだとか、そんな事はお互いに望んではいないだろうだとか、無難にも思える理由を述べられてしまった以上、そうして己が解ったと頷いてしまった以上、無理に秋山を抱き締める事など到底できる筈もなかった。
 自分の事だからこそ余計にそれが解ってしまって、結局は取っ手に手を伸ばす事もできずに、振り返ればそこに秋山が居るかもしれないなどという甘やかな夢想にも浸る事ができない金剛にできる事は、扉を背に立ち尽くすだけだった。
 隔たりはたった一枚の扉。
 どちらかが振り返れば。
 どちらかが扉を開ければ。
 その腕は容易に届いただろう。
 けれどもどちらともがそれをできずに、それ故にその腕は届かないまま顔を伏せ目を閉じ現実を遮断した。




 夢は夢だからこそ美しく。
 目が覚めればそこは現世。


 現実は常に突然で理不尽で気紛れで。








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