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それだけ好きってこと


※トリップ主人公
※知識あり
※『これ』と同じ設定





 様子がおかしい、と于禁は眉を顰める。
 唸り声を上げる一歩手前まで顔は歪められており、先程から部下が書簡を持って部屋を行き来する度に怯えられていた。
 于禁にしてみれば考え事をしているだけであって怒っている訳ではない。最近になってよくこのように男が考え事をする機会が増えたせいか、李典に「眉間の皺が凄いことになってますよ」と言われてしまったのは一度や二度ではなかった。
 その考え事の原因となっているのは一人の人間であり、そして今回も例外ではなく。
 握っていた筆から滴が落ちそうになっているのに気付き硯へと置いて、于禁は深く溜息を吐いた。

 半年ほど前に于禁と恋人関係になった彼の名前はナマエだ。
 魏の頂点に立つ曹操と古くからの友人らしく、よく酒の席に誘われているのだと本人から聞いたことがある。
 この国へ来てすぐ、近付きにくいと思われていた筈の男に何かと世話を焼いては結構だと于禁は断りを入れていた。その度に分かったと了承しているというのに、気付けばなんだかんだと世話を焼いてくる彼に一時期ほとほと困っていたのは懐かしい。
 曹操の軍に所属する人間の中では古株だったせいか、それともその背に背負う二つ名のせいか。
 于禁が曹操の元へと身を置いた時には既に彼の知名度は高く、だからこそ、何故そんな人間が自分に接触してくるのか分からなかった。
 手に持つ得物全ての刃を潰し、殺しをよしとしていない。臆病者かとも思えばそうでもなく、勇猛果敢に前線で敵をなぎ倒す姿は流石と言わざるを得ない。
 いつも無表情で口数も少ない彼は恐れられるどころか崇拝されていて、そのせいか彼の部隊は常に士気が高かった。
 自分とは似ているようで全く違う存在に世話を焼かれている内に、ナマエという個人に興味を持ち始め。それがいつのまにか情愛が混じり、ついうっかり想いを口にしてしまった。まさか受け入れて貰えるとは思っていなかったが、結果良ければなんとやら、である。

 そんな彼の様子がおかしいと于禁が気付いたのは今朝のことだ。
 執務以外にも部隊の鍛練や指導もあり忙しい日が続いていて、二人の時間というものがろくに取れないまま一ヶ月が過ぎていたせいだろう。翌日が彼の休暇だと知り、駄目元で閨へと誘えば驚きはしていたものの拒否はされなかった。
 この関係になってから知ったのだが、元々彼は社交的な部類だったらしい。曹操のせいで仮面を被らざるを得なくなったのだと苦笑する姿は普段の彼を思えばとても新鮮で、口数も二人の時であれば于禁よりも多い程だ。今でこそそれが当たり前になっているが、付き合い始めの頃は彼が笑うたびに于禁が動揺していたなど、ナマエは知らないに違いない。

「……何か不手際でも犯したか」

 昨夜まではいつも通りだった筈だ。手ぶらでは悪いからと酒を持参してきた彼と杯を交わし、夜が更ける前にナマエへと手を伸ばした。
 拒否もされず、羞恥で多少の抵抗はあったにせよ、嫌悪されているとは少しも思わなかったし彼もしていなかったと思いたい。そうして一晩共に過ごし、朝を迎えて最初に目にした時には既に彼の様子は変わっていた。
 どうしたのかと聞いても答えてはくれず、なんでもないと言う割に何度も開閉される口はまるで何かを訴えようとしているようにしか見えなくて。耐えるように両の拳をきつく握り締めている姿は痛々しく、しかし男からの問い詰めを終わらせるように仕事へと促すナマエに于禁はそれ以上何も言えなかった。
 お前は何も悪くない、と彼は言っていた。その言葉を前提とするのならば何故、あんな表情をしていたのだろう。
 やはり無理矢理にでも理由を聞いておけばよかったと于禁は嘆息する。自分が何かしてしまったのであれば謝罪しなければならない。于禁とナマエそれぞれが何かと誤解を招きやすい性格をしているだけに、このまま放置するのは得策ではない気がした。
 考えに耽っている間に閉じていた目を開ける。目の前には書きかけの書簡が広げられていて、男が座る椅子の隣には書簡を置く専用の箱が置かれていた。
 箱の中身は然程溜まっていない。急ぎの案件も回ってきてはいないし、鍛練の予定も入っていないから何もなければ今日は普段より早く帰れる筈だ。
 時間の目安として置かれた蝋燭の蝋は溶け切っておりあと僅かもしない内に消えるだろう。午前はそれで終わり。次に立てられる蝋燭の火が消えれば自由の身だ。
 いつもならば翌日の分にまで手をつけて遅くまで残っている男は、今日に限っては横槍を入れられる前に城を後にしようと決めたのだった。



***



 于禁が仕事を片付けて、ひとまずと自邸に足を運んだ先にあった姿に驚いた。

「…お疲れ、于禁」
「……ナマエ、殿?」

 早かったな、と笑う表情は未だに何処かぎこちない。何故自邸の前で待ち伏せするように立っているかは分からないが、会いに行こうと思っていた本人が此方に来るとは思わなかった。
 驚きはしたが手間が省けたのは事実。彼も何か用があって此処まで来たのだろうと于禁はとりあえず自邸へとナマエを案内する。その間、彼は于禁と目を合わせようとはせず、やはり自分は何かしてしまったのかと男は眉間に皺を寄せた。

 自室にて茶を用意させて人払いを済ませた後、于禁は改めて彼へと向き直る。
 卓子を間に挟み椅子にそれぞれ座った二人の間には沈黙が続いていた。部屋に案内するなり于禁は彼に問いかけようとしたけれど、ナマエが此処に来た理由も知りたい。目的を持って此処まで足を運んだのだからと、于禁は彼が口を開くのを待つことにした。
 ナマエの手には小さな袋がひとつ握られている。
 先程から両手で抱えるように持ったままじっとそれを凝視していて、その袋の中身が何なのかは于禁には知りようがないが、此処に来た理由の一つだと察するのは容易かった。
 彼を自室に招いてどれだけの時間が経っただろう。
 城を出た時はまだ顔を出していた陽は完全に沈み、夕食の準備が出来たと声をかけられても後回しにした。
 于禁は彼の口が開くのを静かに待ち続け、そうして漸く決心がついたのか袋を一層強く握り締めたナマエは一言呟くように言った。

「……悪かった」

 久しぶりと思える程の沈黙の末に届いた声音は酷く弱々しい。だが声音以上に言われた言葉に于禁は目を見開く。
 何故、自分は彼に謝罪されているのだろう。むしろ己が彼に何かしてしまったのではないのかと思い咄嗟に口を開こうとして、ナマエが顔を上げたことにより出鼻をくじかれてしまった。

「俺、お前にあんなことしてたの全然気付かなくて…今朝知って驚いたよ」
「ナマエ殿、一体何を言って…」
「誤魔化さなくていい。気を使ってくれてたんだろう?今まで気付けなかった俺がおかしかったんだ」

 本当に悪かった。
 そう言って彼は頭を下げる。下げられた側の于禁は何に対しての謝罪か分からないせいで何も言えず、やめてくれと頭を上げさせようと手を伸ばしかけたところで目の前に差し出されたそれに動きを止めた。

「これ、俺が贔屓にしてる店の爺さんに頼んで作って貰ったんだ。急いでたせいで量は少ないけど、追加を頼んでおいたから明日にでもまた渡せると思う」
「……これは?」
「薬だよ。……お前の背中の傷に塗る薬だ」
「背中?」

 矢継ぎ早に説明されて戸惑うも、問えば返ってくる答えに理解するどころか益々疑問に首を傾げてしまう。
 差し出されたそれをとりあえず受け取ればつんとした匂いが鼻をつき、確かに薬なのだと知る。しかし何故こんなものを渡されたのかいまいち分からずにいれば、どうやらこれは傷薬らしい。しかも、于禁の背中に塗る為の。

「(……成程、そういうことか)」

 そこまで言われて漸く合点がいった。
 彼が今朝様子がおかしかったのも、今こうやって薬が渡されている理由も全て己の為だったのだ。
 ナマエが言うように于禁の背中には確かに傷がある。刃に引き裂かれたものではない。今目の前に座るナマエ本人の手によって作られた爪の痕だ。
 閨の中では声を上げぬよう細心の注意を払っているのか知らないが、于禁は彼の嬌声をまともに聞いたことがない。
 その代わり必死に男へとしがみ付いてきて、結果知らぬうちに爪を立てては于禁の背中に痕を付けた。
 改めてナマエを見れば緊張しているのか体が強張っているように見えた。眉間に皺を寄せて口を一文字に引き、目は真っ直ぐ于禁を貫いている。
 もう一度だけ手渡された薬へと目線を落とす。人のことを言えた口ではないが、この男も大概誤解を招きやすい性格だ。

「分かった。これは有難く頂戴しておこう」
「…ああ、そうして貰えると助かる」

 于禁がそう言えばナマエは見るからに安堵して、強張っていた体からも力が抜けたのが分かった。

「それで、ナマエ殿。私から其方にひとつ頼みたいことがあるのだが、よろしいか?」
「?なんだ、俺に出来ることならなんでもするぞ」
「この薬を貴方に塗って頂きたい」
「…………え、」

 男の言葉にナマエは固まる。于禁はといえばそんな彼をしり目に自室に隣接された寝室へ続く扉を開き、そのまま寝台へと腰掛けた。硬直が解けたのか慌てた様子で追いかけてきた彼は男が寝台に座っているのを見るなりぎくりと体を震わせる。
 背中の傷に負い目を感じている側にしてみれば薬を塗るなど苦行もいいところだろう。己が傷付けた傷口を見せつけられた上に自ら触れなければならないのだ。
 彼も例に漏れずそう感じているのだと理解した上で于禁は先の言葉を口にした。彼を追い詰める訳でも詰問するつもりもない。ただ伝えねばならぬことがあるからこそ、敢えて治療を頼んでいた。
 暫く扉の前で立ち尽くしていたが、于禁の視線に促されるようにゆっくりと男に近付いて、薬を塗る為に男の背後へと回る。于禁が寝台に座っているせいで彼もその上に乗り上げることになったのだがこればかりは仕方ない。
 背後に回ったのを確認して于禁は上衣を脱ぐ。露わになった傷口は何か消毒を施した訳でもなかったので赤く腫れ上がっており、それを目の当たりにした彼がひゅっと息を呑むのが聞こえた。
 持っていた薬をナマエに渡す際に触れた手は震えていて、言い出したのは己とはいえ申し訳なく思う。
 ゆっくりと封を開けて、薬を塗っていく。外にさらけ出された為かつんとした匂いが強くなった。

「痛いか?…いや、痛いに決まってるよな、悪い…」
「……ナマエ殿」
「…なんだ?」
「私はこの傷を感謝こそすれ、憎く思ったことなど一度もない」

 背中を辿る指がぴたりと止まる。
 勘違いをしないでほしかった。男は彼に傷を見せつける為に治療を頼んだのではない。男は彼から傷を付けられてつらいと思ったこともない。そこにあるのはただ一つ、歓喜という悦にも及ぶ感情のみ。

「互いに感情を口に乗せるのは不得手。それが分かっているからこそ、これは貴方からの想いとして私は受け取っている」

 だから貴方が気にすることも、謝罪する必要もない。
 そう続ければ背中に何かが当たって、すぐにそれがナマエの頭だと知る。熱を持っているような気がするのは恐らく気のせいではないだろう。

「…ほんっと、お前って奴は……」
「…こんな私はお嫌いか」
「いや、むしろ逆だ。惚れ直した」

 くすくすと笑う声に于禁も息をつく。どうやら誤解は解けたらしい。笑い声につられて後ろを振り向こうとしてまだ塗り終わっていないと咎められたけれど、一瞬だけ見えた彼の顔は案の定赤くなっており、思わず男も小さく笑ってしまった。

 二人の間に起きたすれ違いは大事を招くことなく治まることが出来た。
 しかしひとつだけ問題があるとすれば、于禁に腕を伸ばす代わりにと彼が己の口を塞ぐようになってしまったことだろうか。
 同時に二つもの愉悦が奪われて、どうしたものかと思案する于禁を見て、今度はナマエが男の様子がおかしいと頭を悩ませることとなる。
 そんな彼らは、誤解されやすいという部分ではやはり似た者同士なのかもしれない。




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