[通常モード] [URL送信]
彼に捕まった日





「俺、此処を離れようと思ってるんだ」

 呟くように落とされたそれは唐突で、思わず「え?」と聞き返してしまった。
 ついさっきまで陣や策の話をしていて、明日にでも新しい陣形を練習しようかと言っていたところなのに。

「諸葛亮にはもう言ってあるんだけどな、離れるというか…少し、旅をしようと思って」
「旅…?」

 まるで今日は良い天気だと言っているのかと思うくらいの声音で彼はそう続けている。
 彼は旅をする、と言っている。諸葛亮に既に伝えているということは何か用でもできたかと思ったけれど、旅をするということは暫く此処へは戻ってこないということで。
 どこにいくのかを聞いても遠くへ、としか返ってこず、行き先を決めていないのか、はたまた告げる気がないのか。どちらだとしても徐庶は嫌だと思った。

「そんな突然…一体どうしたんだい、何かあったのか?」
「いやいや、別に何か理由があるとかじゃないんだ。ただ、」

 もうそろそろいいかなぁ、と思ってさ。
 彼はそう言ってへらりと笑う。その笑みがこれ以上踏み込むなと言っているようで開きかけた口は閉じてしまって、けれど今何かを言わなければこのまま彼は理由も告げずに此処を出て行ってしまうのだろう。
 それだけは嫌だった。だって徐庶は彼のことを好いていたから。

 言うだけ言って満足したのか、振り返る形で話していた彼が前を向いてしまう。そうなれば表情は見えなくて、向けられた背中が拒絶を表しているようだった。手元ではくるくると書簡を巻いている。そういえば彼はこの後諸葛亮の元へとあの書簡を届けにいくと言っていた。ならばその書簡が巻き終われば此処から出て行ってしまう。諸葛亮の元へと行ってしまう。
 そこまで考えてハタと気付く。彼は諸葛亮には既に伝えていると言っていた。他の誰にも言わず、ただ一人、諸葛亮のみに言っている、と。

 ――何故、自分には言ってくれなかったのだろう。

「(…ああ、駄目だ。こんなこと考える資格なんてないのに)」

 もやもやと腹の底から湧き上がるそれは恐らく嫉妬だ。
 もう何度味わったかしれないこの感情を抑えるのは本当につらくて、けれど彼…ナマエが隣で笑いかけてくれればそれだけで治まった。
 でも、今はもう無理だ。
 つい今し方向けられた笑みは鎮静剤になるどころか逆効果で、どうして、何故、とそんな疑問ばかりが浮かんでは喉元を叩く。口に出せ、問いかけろ。本音ともいえるそれを理性で押しやって、けれど視線はナマエの背中から離れない。
 どうして。

「(せめて、孔明よりも先にその話を聞いていたかった)」

 自分勝手で吐きそうだ。理不尽だと分かっていても怒りを感じてしまうのは、ひとえにその相手がナマエだからに他ならない。
 自分よりもずっと昔から彼と一緒に過ごした諸葛亮だからこそ、ナマエの言葉に否と言わなかったのだろう。止められたのであればそこでナマエは諦めただろうし、こうやって徐庶に話を持ちかけることもなかった。
 …もし、諸葛亮よりも先に自分が彼の話を聞いていたら。きっと自分は否と答えるだろう。どうして、何故、何かあったのかと根掘り葉掘り聞いて、彼を止めるに違いない。
 だからこそ自分には話さなかったのかもしれない、とも考えて苦い笑みが漏れる。そう思ったからこそ彼は全てが決まってから自分に話したのかもしれない。止められるのは分かっているから、それが嫌だったから自分に言わなかったのか、と。

「(…本当に、俺は君の枷にしかなれない存在なんだな)」

 手に力が入る。握っていた書簡は耐えられなかったのか少し破れてしまった。貴重な資料のひとつだと、ナマエがわざわざ持ってきてくれたのに。

「じゃあ俺はこれを諸葛亮の所に持っていってくるから」

 それじゃ、と幾つか書簡を抱えてナマエは徐庶の隣を通り過ぎる。
 その所作はいつも通りで、本当に普段通り過ぎて。

「……ねぇ、ナマエ」

 腹の中を暴れ回る怒りを、徐庶は抑えることが出来なかった。

「――っえ、」

 徐庶の横を通り過ぎる直前、彼は腕を掴まれて床に引き倒される。持っていた書簡はそこかしこにバラ撒いてしまい、封をしていた紐も解けたのか転がる度にその中身をさらけ出す。
 引き倒すと同時に彼の上に馬乗りになっていた徐庶は、何が起こったのか分からないと目を点にしている彼の顔の両側に音を立てて手をついた。

「じ…徐庶…?」
「……君は」

 見上げてくる瞳の中は驚きで一杯で、その中に少しだけ怯えを見つけてしまって徐庶は苛付いた。何故君がそんな顔をするんだ。

「君は、本当に自分勝手だ」

 いつも一人で決めてしまう彼が嫌だった。

「俺が、どんな気持ちでいるかも知らないで」

 相談するのはいつも諸葛亮で、仕方ないと思っていても悲しかった。

「何処か遠くへ行くなんて酷いじゃないか」

 手を伸ばせば届く所にいたからこそ焦れる心を落ち着かせることができた。
 それが出来なくなると彼は言う。遠くに行くのだと。自分の手が届かなくなるほど、遠くへ。

「…そんなの、許す訳ないだろう?」

 言って、徐庶は彼の頬へと手を伸ばす。真横に置いていたからかすぐに届いて安心した。
 けれどナマエは遠くへ行くのだと言う。この手が触れられず、隣にもいない、会話も出来ないほど、――遠くへ。

「(…嫌だ)」

 考えれば考えるほど受け入れられない。苦しい。息が出来ない。苦しい。苦しい。

「好きなんだ」

 こんなにも好きなのに。
 隣からいなくなると思っただけで息が出来なくなるほどに。
 声が聞けない、姿が見れない、自分に笑いかけてもくれない。そんなこと耐えられる筈がない。

「好きなんだ、ナマエ…っ」

 血を吐き出すかのように紡がれたそれは痛々しく、本当に血を吐いているかと思うくらいに喉が痛い。
 分かっている、分かっている、自分がどれだけ身勝手なことを言っているのか。分かっているのだ、そのくらい。
 現に今彼の顔を見ることが出来ない。押し倒した彼の胸元へと額を押し付けて、力の加減も出来ずに両肩を掴んでいる。顔が見れない、でも、自分から離れるなんて許せない。
 理性に押しやられた本能はもっとさらけ出せと身の内で暴れている。
 こんな言葉じゃ足りない、もっと大胆になれ。遠くへ行かせるのが嫌ならば、何処にも行けないように、いっそ閉じ込めてしまえばいい。

「(駄目だ、駄目だ、駄目だ)」

 こんなことをしても彼を困らせるだけなのに。自分の気持ちを伝えても成就することなんてありえないのに。
 必死に冷静になろうとしているのに両手は彼から離れようとするどころか益々力が込められて。戦装束じゃない普段着だからか爪も食い込んで痛い筈だ。ああでも、彼に傷をつける日がくるなんて、と何処かで喜んでいる自分がいるのも確かだった。

 せめて、せめて。
 この手を、体を、力の限り振り払ってくれたら諦めがつくかもしれないのに。
 怒って、罵倒して、罵って。
 顔も見たくないとその口で言ってくれたら、まだ間に合うかもしれないのに。

「―――……?」

 そんな責任転嫁ともいえる葛藤をしていれば、後頭部に何かが乗せられたのが分かった。
 ぽんぽん、と。
 繰り返されるそれはきっと手で、誰のだと思っても自分が今まさに押し倒している人物の手以外にありえない。

 ぽん、ぽん、ぽん、
 何度も何度も、撫でるように優しく叩く手に、次第に自分が落ち着いていくのが分かる。握り締めていた手からは少しずつ力が抜け、自然と目を閉じてしまう。
 …何故、彼はこんなことをするんだろう。
 意図が分からず動揺するもそれすら流されてしまうほど、その手はとても心地よくて。
 まるで落ち着けと宥められているようだった。

「……落ち着いたか、徐庶」

 頭上から響く声はいつもの彼の声で、知らず徐庶は頷いた。それを見たのかナマエはそうかと呟いて、よっ、と声を上げて徐庶ごと体を起こしてしまう。
 完全に起き上がることは出来なかったせいで未だに徐庶に馬乗りにされたままだったけれど、起きたことで真正面から視線を交わすことになり思わず徐庶は俯いた。
 さっきの今で、一体どんな顔で彼を見ればいいというのだ。激昂していた頭は既に沈静済みで、だがもう一度同じことを言われたら今度こそ止まらないだろうな、と自嘲した。

「なぁ、徐庶」
「………。」
「おまえは俺が遠くに行くのが嫌なのか?」
「……っああ、そうだよ」

 さっきも言っただろう、と。自分の言葉は届いていなかったのかと彼を睨みつけようとして、正面から見た表情に何も言うことが出来なかった。

「…そっか、うん、そうか」
「え…ええと、ナマエ…?」
「分かった」

 おまえが言うなら、行かない。
 そう言ってナマエは笑った。いま、彼はなんと言った? 行かないと言ったのか。自分が行くなと言ったから、行かない、と。

「…ほ…本当に? 行かない、って、」
「どこにも行かない。…おまえがそれを聞くのか?」

 あんなに熱烈な愛の告白をしたおまえが?
 言われて顔が熱くなる。勢いではあったし嘘でもないが、それを彼に伝えてしまった。受け入れられる筈がないと思っていたから言わないでいたのに、あまりにも頭に血が上っていたせいでうっかり口に出してしまった。
 …なのに、何故彼は笑っているのだろう。
 贔屓目かもしれない。そう思いたいだけかもしれない。彼は、とても嬉しそうに笑っている。

「(…ああ、もしかして)」

 もしかして彼は、友人としての気持ちだと思っているのかもしれない。
 違うんだ。そんな軽いものじゃない。もっともっと欲深く、相手を己の色に染めたい、そんな汚らわしいもので溢れた方の『好き』なのに。

 そう思うと途端に気持ちが沈んでいく。せっかく伝えた気持ちはどうやら彼には届かなかったらしい。
 普段から鈍いところもあったにせよ、これはあんまりじゃないか、とまたどす黒い靄が腹に湧き上がったところで徐庶、と。

「責任取ってくれよ。…俺、あれが初めてだったんだからな」
「……え?」
「まあ俺も俺で自分の気持ちに気付いてなかったっていうか…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 ひとりで喋る彼に違和感を覚える。初めてってなんだ。責任ってどういうことだ。
 相手も相手で悩んでいる様子だったけれどそんなことに気を回す余裕がある筈もなく、徐庶は慌てて彼に待ったをかけた。

「意味が分からないんだ、責任とか初めてとか…一体どういう意味なのか説明してくれ」

 徐庶にしては落ち着いて問いかけたつもりだった。だというのに今度は相手が途端に顔を赤くして慌ててしまう。

「せっ…説明って、おまえ…この状況で何をどう説明しろっていうんだ…!」
「え、え?」

 真っ赤になった挙句に怒られてしまった。
 ぐいと体を押しのけられて、不意打ちだったせいか簡単に後ろへと倒れてしまう。その間に相手は立ち上がって、けれど相変わらず顔は真っ赤だ。

「ナマエ…?」
「…おまえが、言ったんだろう。何処にも行くなって」
「あ、ああ」
「だから行かない。徐庶のことが好きだって気付いたから、旅はやめる」

 おまえに言われるまで気付かなかった。だから責任を取れ。
 言うだけ言って彼はすたすたと部屋から出て行ってしまった。取り残された徐庶はぽかんと口を開けたまま固まっていて、今彼が言ったことが信じられなかった。

「(…好きだ、って、言われたのか、俺は)」

 聞き間違いかと思ったけれど、自分が彼の言葉を聞き間違える筈がない。
 一語一句完璧に覚えているその言葉を頭の中で何度も反芻する。…顔が、熱い。

「…っま、待ってくれナマエ!」

 漸く理解した徐庶は開け放たれたままの扉から飛び出した。何処に行ってしまったのか彼の姿は既に無く、だがこういう時ナマエならどこに行くかなんてわかりきっている。
 その場所を考えて少しだけ悔しいけれど、今はそんなことよりも彼の顔が見たかった。



 諸葛亮の元へ走ってきたナマエを追いかけてきた徐庶が「責任を取らせてくれ!」と大声で告げながら飛び込んできて、偶然その場に居合わせたホウ統と共にどういうことだと二人してからかわれたのは、また別の話である。





戻る

≪  ≫
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!