フロイデ!<1> 最近の地球温暖化のおかげで桜の開花宣言はどんどん早くなり、入学シーズンでは満開を通り越して良くて花吹雪、せいぜいが萼の紅ばかりが目立つ、そんな時期。 チュウコウイッカンキョウイクだとかいう言葉が一般的になってもう随分経つ気がするけれども、実質中学校と高等学校の間にはれっきとした差があるわけで、校舎も変われば制服も変わる。そして、高校募集の難関をくぐり抜けてきたニューフェイスだって参入するわけで。 (まさか) 自分が、その難関をくぐり抜けられるなんて思わなかったが、今、身を包む真新しい制服は地元では名門とされる名門私立のものだ。 地元、といっても、幸村にとっては父の故郷であって馴染みは薄い。転勤族だった父にくっついて転々としてきたが、この春の辞令でめでたく地元にUターンが決まったのだ。ちょうど高校受験の頃、手堅いランクの近所の高校が合格圏だということに一安心していたところ、父の「どうせだから受けてみたらどうだ」という軽い勧め。自由な校風な上に個性派な生徒が多いと評判で人気の、その学校の門戸は限りなく狭く、駄目もとというよりもこの地にやってきた記念のつもりで受けてみたら、あろうことか合格してしまった。確かに合格の可能性がなかったわけではないが、それは限りなく低い確率で、合格を知った両親や学校の進路担当は絶句したし、幸村自身も「何のドッキリ?」と合格ボードの前で思わず周囲を見回してしまった程だ。 だが、無事に合格通知や関連書類も受け取ることが出来たし、ほどなく制服も出来て、入学を迎えたのだった。 ◇ ◇ ◇ 入学して数日もすれば、校舎には慣れた。しかしながら、ほとんどが内部進学者で知り合い同士という全くのアウェイに飛び込んだ自分はほとんど珍獣扱いで。 「どう? 落ち着いたかしら」 妖艶な雰囲気をまとった担任がかけてくれた声は苦笑で答えるしかなかった。 「落ち着くというか……なんというか……」 「そうね、うちのクラスじゃ高校編入は真田君だけだものね。しばらくは大変だろうけれどクラスメイトと仲良くやってちょうだい」 微笑む美女は担任の織田濃だ。その美貌から「織田先生」ではなく「濃姫」と呼ばれているし、本人もそれを許容しているという。担当教科は化学の彼女はクロスカントリー部の顧問というから驚きだ。聞くところによると、乗馬も得意だという。しっとりとした和風美女の印象とは裏腹に随分と活動的らしい。 「はい。ちょうど、幼馴染みの森がいますから……」 入学して知ったのだが、クラスには小学生の頃には父の里帰りの度に遊んだ近所の森蘭丸が在籍していた。中学からは会っていなかったから、クラスで再会した時は驚いたものだ。 「あら、蘭丸君と?」 「何、俺の話?」 ひょこり、と濃姫の影から出てくる顔。前髪を額で縛り、くりくりとした瞳が印象的な蘭丸の登場のタイミングの良さに思わず吹き出した。 「なんだよ、幸村」 むう、と唇を尖らせる表情に余計に笑いを誘われる。そしてそれは自分だけじゃなかったらしい。 くすくす、と声をもらして笑い始めた濃姫はやがてその美貌に艶やかな微笑みを広げた。 「真田君とは幼馴染みなんですってね。よくしてあげてね、蘭丸君」 正面からその笑顔を向けられた蘭丸は、ぼっと顔を赤くするとぴしりと直立した。 「はいっ、任せてください、濃姫様!」 敬礼でもしかねないその勢い。 そのとてもイイ返事に満足げに頷くと、それじゃあね、と流し目気味の一瞥を向けて濃姫は背を向けた。かつりかつりと鳴るヒールの音も上品に立ち去るその後ろ姿をうっとりと見遣る蘭丸を、思わずつつかずにはいられなかった。 「おまえ、判りやすすぎ」 「なっ……べ、別に俺に下心なんかないんだからな!」 「いやソレあるって言ってるようなもんだし」 「ねえよ!」 ムキになって返してくる蘭丸にさらにツッコミを入れているうちに、だんだんエスカレートして取っ組み合い状態になるにはそれほど時間はかからなかった。 ◇ ◇ ◇ 蘭丸と気安くじゃれてるうちに「真田幸村はこういうヤツか」というのが知れたのだろう、クラスにも自然と馴染めてきた。元々人見知りなどするような繊細なタチではないし、声をかけてもらえないと話が出来ないという引っ込み思案なわけでもないので悩むという程深刻だったわけではないが、やはり、朝クラスに入ってごく普通に挨拶しあえるというのはいい。 気分も軽く、通学の朝のバスに乗り込む。 山側から下ってくるバスはいつも生徒で満員になっており、自分が乗る頃には空席はない。 だが。 (あれ?) 二人がけの席の、一席だけが空いていた。 座席が汚れてるとか何か置いてあるのかと思えばそうでもない。見たところ何の問題もなさそうだ。しかし誰も座ろうとしない。 (なんで?) これからまだしばらくバスには揺られなければならない。ちょうど鞄には今日蘭丸に返す約束をした漫画が入っている。まだ途中までしか読んでなかったから休み時間にでも読むかと思っていたが――。 (学校に着くまでに読み終えられるよな) これも天の采配、誰もが遠慮して座らないのならば甘えさせてもらおう、とシートに腰を下ろした。 途端に、ざわり、と空気が揺れた――気がした。 (え?) 顔を上げると、誰もこっちを見てるわけではないし、何かを発した様子もない。 (?) なんかへんだな、と訝しんでみたが何も判らず、とりあえず、と当初の目的の漫画を鞄から引っ張り出した。そのひょうしに肘が軽く隣の座席の人に当たってしまい、慌てて謝ろうとして――気づいた。 (……寝てる) 窓側で、窓枠に軽く肘をついてるその人は同じ制服を着た男で、こちら側の目を静かに閉じている。白い紐が顔に掛かっているということは、眼帯をしているのだろう。 (ものもらいかな……?) まあ人の顔――しかも寝顔をじろじろと見てるのは失礼だろう、と漫画に意識を向けることにする。 漫画の残りページはあと少し。これなら余裕で学校前に到着するまでに読み終わるはず。 バスは割と揺れが激しいが、それすら気にならないくらいに漫画にのめり込んでいたのだろう。ふと気づいたら、右側の男の頭がこつり、と自分の肩に当たっていた。 (あれ) 深く眠っているらしい男は揺れることなく、そのまま凭れかかってくる。僅かに耳に届く寝息は安定していて、すっかり熟睡しているらしい。起こしたり押し退けたりするのは気の毒に思える程だ。 体重のかけ方が絶妙のバランスなのか、さほど重いわけでもないし、漫画を読む分には邪魔にならない。隣になったのも何かの縁だ。 (起きるまではこうしていようか) 彼を凭れかからせたまま、ぺらり、と漫画をめくる。 左手の厚みが薄い。もうちょっとで終わりそうだ。 (………) しかし、邪魔にはならないはずの、その頭――気配がどうしても気になってきてしまった。 (意外と……) 起こしては駄目だ、と思うと変に力が入ってしまって身体が強ばる。そんな自分をよそに、すやすやと安眠貪るその眼帯男が実はとても秀麗な顔立ちをしているのに、ふと気づいた。 僅かに開いた唇や伏せた目を縁取る鳥毛のような睫の影。 (えーと……) 色っぽい、というのはこういう感じだろうか。 濃姫の婀娜っぽさとはまた別の――そもそも男に対して色気を感じるのはおかしいんじゃね? と自分にツッコミたくなるのだが、綺麗なだけでは済まない何かをこの男は持っているような気がして。 (……なんだろう) 目が、離せない。 思わず見つめている視線の先で、ふ、と僅かな寝息が途切れた。 「……、……」 ふるりと一瞬揺れた睫がゆっくりと持ち上がる。 片方だけのその目。 (あ) その瞳の色が金に見えたのは光の具合なのか―― 一度の瞬きでその瞳は普通の人と同じ黒い瞳に戻っていたけれども、ただ驚いたのはその目線の鋭さだ。 向けられた一瞥に射すくめられる。息することすら忘れて、その目を見つめ返すことしか出来なかった。 とても綺麗な目だと思った。右目が眼帯に覆われているのということすら忘れるほどに、その唯一の瞳は印象的で。 「――I'm sorry……」 耳に届いた流麗な英語が、その唇から発せられたものだと気づくのに数秒かかった。 「あ、……」 「But、よく眠れたぜ。Thank you」 ふっと涼やかな目元が緩んで、口元に笑みが浮かぶ。それだけで印象は一気に豊艶なものになり、かっと頬が熱くなった。 思わず動けないでいる自分と前座席の間の狭い隙間をするり、と抜けた男は、人の流れにしなやかに乗っていってしまう。 「あ、」 (やばい) ここは、終点――学校前だ。 到着していたことすら気づかずにいたのに慌てて立ち上がると、足下にばさばさと音をたてて漫画が落ちた。存在すらすっかり忘失していたそれを泡を食いながら拾い上げ、ほとんどの生徒が降車してしまったバスから急いで駆け下りる。 (……なんなんだ……?) 胸がどくどくと鳴る。 ――あの眼が、頭から離れなかった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |