短編 −C その日のうちに、”アイツ”の家に来た。 もう何度も使ったことのある、この家の鍵をさして回す。 このご時世に、簡単に開いてしまうセキュリティの低い、ドア。 中に入ればいつもの通りに、そこはがらんとした寒々しさで俺を出迎えた。 寒々しい、だなんて感じたのは初めてだった。 いつも、何もない、とか、さびしい、なんてことは、感じてはいたのだけれども。 それはやはり。 何度も、何度も部屋の中を見まわす。 ワンルームだから、ユニットバス入口のすりガラスもすぐに見えて。 どこを見回しても、俺、ひとり。 (当たり前だ。この部屋の主は、さっき小さな欠片になった) それを骨壷に収める作業までしてきたのに、なんだか未だに信じられない。 買い物に行ってるんじゃないか。 いつもみたいに、「ただいま」といって、帰ってくるんじゃないか。 そう思って、何度も何度も部屋を見回すが、部屋は静かなままだ。 急に体から力が抜けて、目の前にあったベットに倒れこむ。 体が重い。 頭が、霞ががったようにモヤモヤして、ぐらつく。 悪酔いしたような状態が、何日も続いていた。 こんなとき、そっと俺の頭を梳く手が、いつも傍にあった。 ゆっくりと滑らすようにして、俺の頭をなでていた暖かい手。 その感触も、いつまでたっても訪れることはない。 当たり前だ。 いつまで待ったって、遅れてくるなんてことはおろか、もう二度と感じることはないのだ。 ふわり、と、嗅ぎ慣れたにおいが蒲団から香る。 久し振りの、”アイツ”の匂いに、頭の隅がカッと熱くなった。 久し振り、なのだ。 いままで、ずっと自分の傍にあり続けたものだったのに。 酷く、むしゃくしゃした気分になって、ベットにうつ伏せたまま腕を振り上げそのまま振り下ろす。 全力でベットを殴りつけたが、その衝撃のほとんどが、ベットに吸収されてしまう。 叫びだしたかった。 なにを叫びたかったのかは、わからない。 けれど、胃の中で、なにか得体の知れないものが暴れ回っていた。 背中がぞわぞわする。吐き気がする。頭が痛い。熱い、熱い、熱い。 漏れ出た息は、熱く、か細かった。 荒れ狂う意識の中で、ばさり、と本が落ちるような音が聞こえた。 ベットの下に視線を向ければ、一冊のノート。 どうやら枕の下に忍ばせてあったものが、先ほどの衝撃で落ちてしまったようだった。 何となくそれを拾い、そしてページを一枚めくった。 そして、瞳に飛び込んでくる、”アイツ”の字。 [*前へ][次へ#] [戻る] |