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Small prayer


咲がブルックリン橋たもとのプロムナードで滝沢と再会してから、滝沢のおかげでイエローキャブに置いてきてしまった荷物を、あっと言う間に取り戻す事ができた。
やはり滝沢の記憶はなくなっているようで、今は現総理大臣と同じ苗字の『飯沼朗』と言う名前になっているようだ。
しかし、その根本が変わっていないのは、咲の目には明らかだった。
記憶がなくても、滝沢は何も変わらない。
困っている人をほっとけなくて、言葉の通じないこの国をすんなりと渡りきってしまう。
相変わらず掴み所のない不思議な人なのだが、咲にはやはり王子様に見えた。
咲は意を決して、滝沢に本当の事を伝えるべく口を開く。

「あの、私の探していた人って、本当はあなたなんです…」

滝沢はキョトンとした目で咲の方を見て、それからくしゃくしゃと頭を掻きながら笑った。

「なに、新手のナンパ?困ったなぁ」

滝沢の茶化す様であまり困ってなさそうな反応に、咲は溜め息を付きたくなる。
確かに今の状況ではナンパに見えなくもない。
だが、違うのだ。
咲はやっと戻ってきたバックから携帯を取り出すと、データフォルダを開いて、中にある滝沢との写真を証拠とばかりに見せた。
滝沢は目を見開いて画面を凝視して、咲の言う逢いたかった人が自分自身だった事に気付いたようだ。
それから、ぽつりと自分の記憶がない事を話した。
そう口にした滝沢がこの広いアメリカで咲にはとても小さな存在に見えて、滝沢が咲に何かを訴えているようにも見えた。
咲はなんとも言えない気持ちになって、何故だか滝沢を守りたいと強く思う。




「おじゃまします…」

「どうぞ、適当に座って?」

その後、なんだかんだで咲は案内されるがままに滝沢の泊まっているホテルに来ていた。
事情を説明したのは良いのだが、これからどうしたら良いのか咲には分からなかった。
滝沢の汚名を晴らす為に彼を探していたのだが、見つけてからの行動を考えてなかった事に気付いたのだ。
パスポートが戻ってきたのでホテルには戻れるのだが、咲はまだ滝沢と離れたくなんてなかった。
そんな様子を悟ったのかどうなのか定かではないが、「うち来る?」と滝沢に問われて、二つ返事で滝沢の泊まっているホテルに来てしまったのを今更ながらに恥ずかしく思う。
咲は滝沢の部屋のソファに腰を下ろして、部屋の中を見渡した。
滝沢に案内されたホテルは上品な造りで、家賃も高そうだった。
これもやはり滝沢が総理大臣の息子だからなのだろうか。
不意に滝沢の方を向くと、スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛けているところだった。
咲はその行動にドキリとしてしまい、あらぬ妄想をしそうになる思考が羞恥心を煽るので、顔を逸らす事でそれを回避する事に成功した。

「そういえば、君の名前は?」

「ぁ…」

振り向き様に滝沢が話しかけてきて、咲はハッとする。
記憶をなくす前の滝沢とあまり大差がないので、滝沢にとっては初対面な事などすっかり忘れていた。
その反面、やはり自分の事を覚えていない滝沢に物哀しさを覚える。
記憶を消してしまっても自分の事だけは覚えているのではないかと言う淡い期待を、完全に否定されてしまった事になった。
傷付いた心を隠す様に、努めて明るい声を出して咲は顔を上げる。

「私、森美咲って言いますっ…!」

「ふーん…じゃあ、咲って呼んでも良い?」

「ぁ、はい!」

久方ぶりに聴いた滝沢が自分の名前を呼ぶ声に、それだけで咲の心は明るく晴れ渡るようだった。
他の誰が自分の名前を呼んでも、こんな気持ちにはならないだろう。

「滝沢くんにまた助けられちゃった…」

「ん?」

咲がふと零した言葉に、滝沢が聞き返した。
先を促すような滝沢の視線に、咲は落ち着かない気持ちになって矢継ぎ早に喋りだす。

「前にもアメリカに来て困っていた所を、滝沢くんに助けてもらったの。他にも色々…」

「へぇ、前の俺ってどんなだった?」

滝沢の質問に咲はどう答えようか悩んだ。
どこまで話して良いのだろうか。
まさか初対面で全裸だったなんて言えない。

「えーと…今とあんまり変わらないかも」

「今って?」

いつの間にか咲の隣に滝沢が座っていた。
拳一つ分の距離に咲の心臓は早鐘を打つようだ。

「それはその…優しくて、行動力があって、困ってる人をほっとけなくて、」

いざ言葉にすると、在り来たりな言葉しか出てこなかった。
滝沢の良さを言葉になんてできない、咲はそう思う。

「そっか…こんな可愛い子に想われてて、前の俺は幸せ者だな」

「へ!?」

顔に一気に熱が集中するのが分かった。
多分物凄く真っ赤な顔をしていると思う。
ソファに肘を掛けて下から覗き込む滝沢は、そんな咲の反応を楽しんでいるようだった。

「もう!からかわないで」

咲は滝沢の胸に軽くパンチする。
その手を掴まれた。


「からかってないよ。本当に思った事を言っただけ」

ソファの上で暫くお互い見つめ合っていた。
何秒、何分そうしていたのかは分からない。
ただ、静かに時が刻むだけ。

「ありがとう」

「ぇ…?」

その言葉だけが、二人の世界に切り取られたみたいだった。
少し低い滝沢の声が部屋に響く。

「俺、記憶がないって気付いてから、自分が何者なのか考えたりもしてさ…その内考えても仕方ないって開き直ってたんだ」

「うん…」

「でも、咲が俺を見つけてくれて、自分の中にぽっかり空いていた穴がふさがった気がする」

急に饒舌になった滝沢の天井を見上げたままの横顔を、咲はじっと見つめた。
彼の本音を一言も聞き逃したくなどなかったから。

「うん…う、ん」

何度も頷く咲の頬に暖かいものが伝った。
天井を見上げたままだった滝沢の視線が咲に移って、その眼が見開かれる。
咲の気持ちはぐちゃぐちゃだった。
滝沢に逢えてホッとしたのと、探していた半年間が今の一言で報われたような気持ちがしたのと、どうして滝沢だけがこんな目に合わなければならないんだと言う悔しさ、よく分からない感情が沢山溢れて涙に変わる。
その様子を目を見張っていた滝沢が眩しそうに見た。
不意に咲と視線が絡まると、滝沢はそっと微笑んでその頭を撫でる。
なんだか小さな子供の様になった気がして、咲は少し頬を赤らめた。
涙が自然と渇くのを待って、咲は口を開く。

「私、滝沢くんを助けに来たんです!」

「ぇ…?」

ぽかんとする滝沢くんの反応に怯えだしそうになる心を堪えて、咲は更に続けた。

「今度は滝沢くん一人に全てを背負わせたりしない…私も一緒に背負いたいの、ぅうん、背負わせて!」

知らず知らずの内に、勢いのまま咲は寄りかかる様に滝沢のシャツを強く握り締めている。
滝沢の反応が怖いのに、さっきまで早鐘を打っていた心臓の事も忘れて、咲は拳一つ分の距離をもっと縮めた。

「その為にここまで来たの」

真正面に滝沢の顔がある。
吐息さへ聞こえる距離。
あんなにも捜し求めた人に触れられる距離にいると言うのに、それ以上をまだ求めてしまう。
願う際限は果てしなくて、途方もないくらいに広がりつつある。
これが“恋”なのだろうか。




「じゃあ、咲…俺を助けて」

その瞬間、咲は滝沢の腕の中にいた。

「た、き沢くん…」

心臓はばくばくと動いているのを感じるのに、不思議と安心感を覚える。
咲は恐る恐る自分の手を、滝沢の背中に回した。
直に肌が触れ合うと温かい。
胸に耳を寄せると、滝沢の心音も咲と同じくらいのスピードな事に気付いた。
何か言わなきゃ、とも思ったが、何も言わなくていいのだと咲は思う。
このまま滝沢に寄りそっていたら、気持ちは伝わる気がした。



「ごめん…いきなり」

少ししてから、滝沢はゆっくりとした動作で咲から離れようとする。
フワッと空気が動く感触に、咲は淋しくなって背中に回していた手に力を込めた。

「ま、まって!」

今自分の顔は真っ赤になっている事だろう、と咲は思う。
滝沢くんにこんな顔は見せられないからだと、咲は心の中で何度も自分に言い聞かせた。

「まだ…もう少しだけ、このままで」

咲が言うと滝沢は納得したのか、さっきとは逆に今度は抱き締め返してくれる。
咲はそれに安堵して、力いっぱい抱き付いていた手をやっと緩めた。

滝沢の腕の中で今の幸せを噛み締めながら、自分が滝沢の為に何ができるかを考えなければならない事を思い出す。
しかし、すぐに少しくらい未来(さき)に延ばしても良いだろうか、と思った。



もう少しだけ、このままでいさせて―――




それは願いのひとつ。
咲は心の中で神様に小さく祈った。



2010.6.20

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