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消えない染み

『咲、信じてくれてありがとう。俺はずっと、君と一緒に旅した場所にいます』

何度も、何度も再生した彼からのメッセージ。
頼るものがなくて、あの時間が幻だったのではないかと、幾度となく思う度にこれを聞いて現実だと思えた。
この半年は、そうして過ごした。
咲を揺り動かしていたのは、彼にもう一度逢いたいと言う思いだけだった。
彼との日々を幻になんてしたくなかった。
置いて行かないでほしかった。

咲はもう一度ノブレス携帯の再生ボタンを押す。
滝沢の声が直に鼓膜に響いた。
もうこんなにも懐かしいと思う。
しかし、咲は本当は懐かしいなんて思いたくなかった。
思い出になんてしたくなかったから。
その瞬間、このメッセージがなかったら、自分は滝沢の声さへ聴けずに薄れゆく記憶の中で彼を失っていたかもしれないと言う事に気付いた。
こわい、と思う。
彼を失いたくない。
咲は寒くもないのにブルブルと震え出した肩を、この世に繋ぎ止める様に両手でぎゅっと抱き締めた。

滝沢は今、60発のミサイル事件の重要参考人として指名手配されている。
行方は誰も知らない。
あの時、咲のコートのポケットに入れられたノブレス携帯だけが、滝沢との唯一の繋がりだった。
このメッセージがなければ、私はここにはいなかったかもしれない、不意にそう思う。

咲は日本から遠く離れたアメリカ、ニューヨークに来ていた。
滝沢がいると予想できる全ての場所を巡ったが、未だに彼とは再会できていない。
ここが、最後の賭けだった。
ブルックリン橋のたもとのプロムナード。
目の前に広がるイースト川の先には、9.11アメリカ同時多発テロで被害にあった世界貿易センタービルの跡地に建てられたグラウンド・ゼロが望める。
豊洲に向かう水上バスで、『迂闊な月曜日』の爆心地のサーチライトを背に二人で撮った写真は、咲の携帯にも滝沢のノブレス携帯にも同じ顔をして残されていた。
君と一緒に旅した場所とは、本当にここで合っているのだろうか?
急に、咲はまた不安になる。
ワシントンD.Cのホワイトハウスの前も、住んでいたアパートにも、滝沢の姿はどこにも見当たらなかった。
今度もそうかもしれない。
咲はすぐに首を振って、不安な気持ちを振り切る様に前を見つめた。
グラウンド・ゼロは、彼と初めて会った時と変わらずに、9.11アメリカ同時多発テロの面影は何一つ残さずにそこにそびえ立っていた。

「滝沢くん…」

咲の呟きにもならない声は、風にかき消される。
ここにもいない。
咲は溜め息をついた。
もう大使館に行かなければ平澤達に心配をかけてしまう。
咲が帰ろうとしたその時だった。


ガシャン―――

突然した音の方に咲が視線を向けると、先程何故か自分のキャリーバックに入っていた拳銃が落ちていた。
ジャケットのポケットにはこの拳銃は大き過ぎた様で、ポケットから滑り落ちてしまったようだ。

「…っ!!」

声にならない悲鳴を上げた咲は、急いでそれを拾いキョロキョロと辺りを見回す。
運良く、陽の傾きかけたプロムナードに人は疎らだ。

「良かった…誰にも見られてな」

「なぁにしてんの?」

ほっと胸をなで下ろした咲の言葉に声が重なる。
咲は「見られた!」と心の中で叫び声を上げ、そろりと後方を振り返った。



「………」

時間が止まった様な気がした。
空も太陽も風も鳥の囀りも微動だにせず、咲の聴覚全てを失わせた。
滝沢朗だ。
咲の探し続けていた人が目の前にいる。
あの日と変わらない笑顔でこちらを見ている。

やっと逢えた…

咲の胸にじわじわと熱いものが込み上げてくる。
本当の所、ここにいるかどうかは半信半疑だった。
この場所で合っていても、この時間この場所に彼がいなければ意味のない、果たされない約束だった。
しかし、彼はいた。
確かに彼は咲との約束を守ったのだ。
咲は高鳴る鼓動と、久しぶりに逢えた嬉しさで、棒立ちのまま滝沢を見つめていた。

「それ、どうしたの?」

近付いて来た滝沢が、拳銃を指で指し示す。
咲は慌てて、どう説明しようかと考えていると、それより先に滝沢が「分かった!」と、口にする。

「たまにいるんだよね。何にも知らない人に運ばせようとする奴が」

貸して、と滝沢は咲に手を差し出した。
咲はされるがままに拳銃を手渡す。
滝沢はそれを持って思いっきり振りかぶると、イースト川に向かって拳銃を投げた。
咲があっと思った時には、遠くの方で拳銃が水面に音を立てて落ちている。
咲は目を丸くして、黙ってその様子を傍観していた。
滝沢はこちらを見ると、ニッと笑って咲の手を取る。

「逃げろ!」

そう言って滝沢は駆け出した。
咲も滝沢に引っ張られる形で走り出す。

あの日と同じだ、と思った。
咲が困って悩んでいる事を、滝沢はあっと言う間にその行動力と突飛な発想で解決してしまう。
それにいつも咲は救われていた。
そんな所も好きだった。
胸にじんわりと湧き上がる感情。
止まっていた時間が動き出して、滝沢への気持ちも一直線に走り出した。
もうこれ以上ないってくらい、好きと言う想いが止めどなく溢れる。
もう二度とこの手を放したくない。
握られた手の先に、少し前を走る滝沢の後ろ姿を咲は見つめた。
走る速度よりも早く、心臓は脈を打ち体中に浸透していく。

滝沢くんが好き。

ニューヨークの街並みを二人で走りながら、咲の心の中にはその感情だけが膨らんで、消えない染みの様に広がっていた。




消えない染み


2009.12.4

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