つゆあおい(トレイン)
雨の中、買い出しなんてついてない。紺色の傘を差しながらトレインはスーパーの袋片手に水たまりを避けて帰路を急いでいた。
スヴェンも人が悪い。何もこんな雨の日に買い出しに行かせなくたって、と心の中で一人ごちた。
雨は嫌いだ。湿度が増してボサボサ頭がへなりと元気をなくすし、朝はベッドから出るのも一苦労だし、何よりもやる気が出ない。そんな俺の様子を見た姫っちに「トレイン、猫みたい」と言われても「ブラックキャットなんだから当たり前だろー」と返す気力すらなかった。
ばしゃっ
「げっ!」
前方から走ってくる車に泥を跳ね飛ばされないように、と車にばかり気を取られていたら勢いよく右足を水たまりに突っ込んでしまった。あーもー俺ついてねー。
不快だけれど、我慢して帰るしかない。あと20分我慢すればアジトなのだから。
よし、帰ったらスウェットにでも着替えてスヴェンの飯が出来るまでベッドで休もう。うんそれがいい。そう思うとあと20分の距離は苦ではなかった。
(次は、右っと。)
この道の右手は公園。遊具の少ないこの公園には普段からあまり人が寄り付かないせいか、草が無造作に生えている。俺はこの公園がお気に入りだった。晴れている日はこの公園のベンチで昼寝をするのだ。木の下にあるベンチで。
公園の草は雨に濡れて皆うなだれていた。
ぱちゃっ
小さく跳んで水たまりを避けると、なんだかゲームみたいで楽しかった。傘にぱたぱたとぶつかってくる雨音は心地良いBGМだ。ゲームの主人公になったつもりで水たまりを避けるのに夢中になっていると、視界の右端に鮮やかな色が映った。足を止めて緑の中の異色を再確認する。女だった。白いワンピースの上に赤いカーディガンを羽織った女が、俺のお気に入りのベンチに座って足元を見ていた。傘は差していない。木の下なので濡れないのだろう。ぶらぶらさせた自分の足を見て楽しんでいるらしい。
俺の視線に気づいたのか顔を上げた彼女はゆっくりと柔らかく微笑んだ。しっとりとした今日の天気みたいな動きだ。
何て返せば良いのかわからず、突っ立ったままでいると、女は手招きを始めた。わけがわからないが、手招きされるがままに俺は公園に足を踏み入れる。何故だか足が勝手に動いた。背の高い草がズボンに当たって雨しずくがついたが、気にせずにベンチの前まで進んだ。
「こんにちは。」
彼女は雨のように柔らかくそう言って笑った。まるで雨の妖精みたいだ、なんてバカだろうか。
「…ども。」
ぱたっぱたっ
木の葉から落ちてきた雨の滴が傘に着地する。
思ったよりも女は幼かった。笑った時に出来るえくぼが彼女の幼さを際立たせているように思える。
何をしているのか聞いても良いものか、とトレインは悩む。
「人を待ってるんです。」
やっぱり彼女は雨の精かもしれない。
隣どうぞ、と彼女に勧められるがままに傘を閉じて慣れたベンチに腰かけた。
「どんな奴?」
「バイクのお兄さんです。」
彼女の口から出てきた言葉があまりに漠然としすぎていて思わずトレインは「は?」と聞き返してしまった。
「ですから、バイクのお兄さんです。」
「バイクってお前…。そいつ来るのか?」
「約束したんです。」
「ふーん。」
どうしてこうも初対面同士、親しげに話せるのか疑問になんて思わなかった。
さらさらと降る雨がベンチの周りを囲うレースのカーテンのようだった。
「少し、昔話をしてもいいですか?」
彼女は俺の了解も得ずにぽつりぽつりと話し始めた。初対面の俺にそんなこと話してもいいのだろうか、と思いながらも俺はその昔話を聞いた。
二年前、彼女が十六歳の頃の話だそうだ。
彼女は学校でいわゆる“イジメ”にあっていたらしい。
ある日――今日みたいな雨の日、いつも以上にエスカレートした嫌がらせを受け、体調が悪いから帰りたいと担任に申し出て学校を早退しこの公園のこのベンチでめそめそ泣いていた。そんな私に声をかけてくれたのが“バイクのお兄さん”。
「……なんで泣いてんだ?」
「………。」
「……今日、天気悪いよな。バイクだから参ったぜ。」
「……。」
隣に座ったお兄さんは雨宿りをしていたらしい。
話しかけないで黙っててよ、とも思ったと彼女は笑って言った。
それからお兄さんは一人で天気のこと、近所のお店のこと、自分が今フリーターだということ、自分も泣きたいくらいに悲しいことがあった、なんてことをしゃべり続けた。
フリーターっていうのは嘘だと思いました。だって去り際に大きな銃持ってるのが見えたから…あ、今お兄さんが持ってるのに似てる感じのです。そう、それ。すっごく似てる。そっくり。…その銃結構人気あるんですか?うーん。ま、いいや。それで、その銃見て何か危ない仕事してるのかなって思ったんです。もしかしたら強盗犯だったりして、なんて。…嘘。お兄さんはいい人だからそんなことしません。だからFBIか何かかなって。
結局わからないままなんですけどね。
そう言って彼女はまた笑った。
「お兄さんも泣きたいなら泣けばいいのに。」
ある程度涙が収まった頃そう言うと、お兄さんはハッとしたように私を見て、すぐに眉尻を下げた。
「大きくなると、泣くのって難しいんだよ。」
困ったように笑うので何だか悲しくなって私は彼に何かしてあげたいと思った。慰められていたつもりがいつの間にか私がお兄さんを慰めていたのだ。
今日はまだ何もされていない通学カバンの中から取り出したものをお兄さんに無理矢理渡した。
「それ、あげます!」
渡したのは小さなあめ玉。透明なビニールに入ったカラフルなあめ。私のお気に入りだ。
「それなめると元気になるんですよ!」
毎日自分へかけているおまじないだった。今日こそはみんなと仲良しに戻れる。楽しく笑える毎日が来る。ツラかったことが全部夢になる、毎日願った。たかがまじない。されどまじない。私は当時これにすがって生きていたのだ。
それをお兄さんにあげてしまったけれど、不思議と後悔はなかった。
今でも大好きなあめなんです。リラックス出来るおまじないに降格しちゃったんですけどね。
カラコロと彼女は口の中であめ玉を転がしてみせた。
「…ありがとな。」
お兄さんは砕けてしまうのではないかと思う程、あめをぎゅっと握りしめて俯いた。その肩は小さく揺れていたように思う。
「私もね、雨の日はすごく悲しくなるんです。」
だって空が灰色でしょう?
周りの景色も暗いでしょう?
朝起きてカーテンを開いても明るくないでしょう?
心まで悲しくなるの。
「だから、その黒いコートは駄目だと思います。」
お兄さんの黒いコートはずっしりと重くお兄さんの肩にのし掛かっていた。
「明るい色を着た方が楽しいですよ。」
そうですねえ、と首を捻る。改めてお兄さんを見ると、金色の瞳がとても綺麗だと思った。
「お兄さんには青が似合います。」
なんとなく、そんなイメージ。お兄さんは静かに笑ってゆっくりと立ち上がると私に背を向けた。
「じゃあな。あめ、サンキュ。」
それだけ言うとバイクに跨ってヘルメットは被らずにゴーグルだけつけてエンジンをかける。私はあわてて立ち上がり彼の服をつまんだ。なんだ?と振り返るお兄さんに私はしばらく何も言えなかった。
「…また、会えますか?」
やっと出てきた言葉はそれだった。何かもっと言いたいことがあったのに。初対面、だけども近しいものを私は彼に感じていたのだ。このおかしな質問に彼はきちんと答えをくれた。
「……また、いつか雨の日にな。」
そう言ってお兄さんは雨に濡れるのも気にせず通りの向こうへ消えて行きました。
「それからなんです。私が雨の日を好きになったのは。」
彼女は照れ臭そうに笑った。
「でも、お兄さんなかなか来てくれなくて。」
いつになったら会えるんだろうなぁと遠くを見て言う彼女に俺は「そのうち来るんじゃねェの?」と曖昧に答えた。
彼女は「そうですね。」と言って笑う。そしてカラコロと口の中であめを転がした。
ガサと鳴ったスーパーの袋から同じあめのパッケージが顔を覗かせていた。ずっとこのままだったのだろうかと恥ずかしくなる。彼女に気付かれないようにビニールの口を静かに隠すように閉じた。
しとしとと降り続ける白糸のような雨のカーテンに包まれたベンチ。
そこに座る一組の男女は何を話すでもなく、ただただ雨を見ていた。
仄暗い空、霞んだ緑、木のベンチ。彩度の低い景色を彩っていたのは男の青いジャケットと女の赤いカーディガンだった。
しとしと、つゆあおい
梅雨葵(立ち葵)の花言葉…大望・熱烈な恋・単純な愛
6月18日の花らしいです。惜しい。
20100619
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