ラストステージ(エキドナ)
二人きりの空間には神氣湯と呼ばれた薬湯の入った薬瓶が一つ置かれていた。この腐った世界を変えると言い切った銀髪の男が置いて行った物だった。この部屋もその男の用意した飛行船内の一室だ。
「エキドナさん、本当にいいんですか?」
「…あんたもしつこいね。」
女優…いや、正確には元女優のエキドナはその薬瓶に手を伸ばす。
「やっぱり変ですよ!そんな怪しげな物飲んで死ぬかもしれないのに。なのにどうして、」
「…あの男の考えに賛同しただけさ。」
「だとしても!さっき会ったばかりの男を信じるなんて―」
「信じてみたくなるくらいこの世界が昔から嫌いなんだよ。」
エキドナは薬瓶を手に取った。彼女の動きすべてが映画のワンシーンのようにとても美しい。今日見る姿は今まで撮影してきたどのシーンよりも、強く、儚く、美しかった。
「心の底から憎いのさ。」
「…でも、」
「あんたは私とは見てきた景色が違う。私にはどうあがいても、あんたの目に映るような綺麗なモンは見えないんだよ。」
「…私にはエキドナさんが何を言っているのか理解できません。」
「…そうかい。」
「でも今、あなたを止めるべきだってことは分かります。」
そう言って彼女はエキドナの左腕を掴む。
白く細い腕は今まで大切にされてきた商売道具だった。それを守るべき立場の人間だからと、傷をつけるようなことを躊躇っている場合ではない。
必死に腕を掴む彼女の姿を見てエキドナは寂しげに笑った。それは本心なのか、女優の笑みなのか。
「いつもみたいに送り出してはくれないんだね。」
「あなたを守るのもマネージャーの私の仕事です。」
「…事務所やめて飛び出して来たんだろ?」
「黙って急に消えたエキドナさんを追いかけただけです。」
先月まで必需品であった分厚い手帳は今はその役目を果たしていない。けれど彼女にとってはエキドナとの繋がりを示す大事な宝だった。今は彼女のバッグの中で眠っている。
エキドナは薬瓶を一度テーブルに戻した。それを見てマネージャーの彼女はテーブルとエキドナの間に入り壁を作る。
エキドナの左腕には赤く手と爪の痕がくっきりと残っていた。その傷をエキドナは右手でさすった。
「私、謝りませんからね。聞いてくれないエキドナさんが悪いんです。」
「気にしちゃいないよ、こんなもの。」
「こんなものって、あなたは女優で」
「元女優、だろ?」
「…。」
「私はもう選んだ道を変えるつもりはないよ。 」
「…。」
「昔から待ってたんだ。あんなヒーローみたいな男を。」
「ヒーローって…人殺しじゃないですか。」
「それでも私にはそう思えるんだよ。あいつならきっと私のことも分かってくれる。そんな気がするんだ。」
エキドナの言葉で彼女の全てが停止した。
そしてゆっくりと水が湧き出るように動き出す。それは彼女の心からの言葉だった。
「私は、あなたをいつも傍で見てきました。」
「あぁ。」
「あなたの気持ちは全て共有しているつもりでした。」
「…そうかい。」
「嬉しいときも悲しいときも一緒に泣いて笑って…あの時間は嘘だったんですか?」
「……。」
「この世の誰よりも私はあなたを理解しているつもりです。」
「…私とあんたじゃ世界が違うんだよ。」
エキドナの言葉が槍のように彼女の心に突き刺さる。
気持ちと言葉と共に彼女の瞳からは涙が零れ出た。
「それでも私はあなたを、」
彼女の言葉を遮ってエキドナは白い手を伸ばした。その指先は彼女の涙をゆっくり、そっと拭う。
「…生まれて初めて、あんたが見てるような綺麗なモンが見れたかもしれない。」
そうして静かに笑った。
それは女優の笑みか、心からの笑みか。
白い腕はそのまま彼女の体を包み込むように背中へ伸びる。
「あんたと出会えて良かったよ。」
ほんの一瞬の抱擁と優しい言葉。余韻をかき消すように、エキドナは彼女を突き飛ばし、いつの間に手に取ったのか分からない薬瓶を一気に飲み干した。途端に胸を押さえて床に崩れる。彼女は傍に寄ってエキドナの肩を抱いた。その体は酷く熱い。呼吸も荒く、今にも意識を失いそうだ。
「エキドナさん!私、あなたのことを」
「バカ、とっくに知ってるよ。」
その言葉に彼女の中でエキドナとの思い出が一気に駆け抜ける。
今にも閉じようとしているエキドナの瞳はとても強いものだった。とても美しく、揺らぐことなどないように思えた。
そしてまた一雫の涙が彼女の瞳からこぼれ落ちる。それは彼女の思いのようだった。
「私待ってます。あなたが帰りたくなった時、いつでもお帰りって言えるように、あなたを待ってますから。」
「あぁ。」
「だから、だから……いってらっしゃい。」
いつものように笑顔で送り出した彼女にエキドナは言葉を返すことなく、小さく笑って眠りについた。その笑みはいったいどんな意味を持っていたのか。
エキドナが眠るのを待っていたかのように先ほどの男がやってくる。彼女は約束通りエキドナを待つためバッグを持って立ち上がった。何年だって何十年だって待てると思った。帰ったらまずはエキドナの好きなワインとチョコレートを買おう。彼女の心は思ったより穏やかだった。
□ □ □
――先月失踪した女優エキドナ=パラスの安否確認を求める声が溢れています。彼女の所属事務所によると――
扉を開く音が聞こえ、クリードはニュースの話題の張本人を振り返った。
「おはよう、君なら目覚めると信じていたよエキドナ。」
「…これからよろしく頼むよ。」
ゲートの能力を持ち、再び目覚めたエキドナはこれから自分と行動を共にしていくであろう男に改めて挨拶をした。クリードはニッコリと歓迎の笑顔でエキドナを迎える。どうやらニュースを見ていたらしい。こんな男でもニュースを見るのかとエキドナは思った。
広間には目的地に向かうため、同乗しているキョーコとシキがクリードから離れた所で各々時間を潰していた。その姿を見たエキドナにクリードは、他にもいるからあとで紹介するよと言った。
それよりもエキドナは時間が気になっていた。仮死状態になる以前のことがあまりよく思い出せないのだ。飛行船に乗った後から記憶が途切れている。
「私は、どのくらい眠ってたんだ?」
「三日くらいかな。短い方さ。」
左腕には覚えのない痣と爪痕が残っている。
女優という職業柄、体に傷は作らないように意識していたのにこの傷はいったいどこでつけたのだろうか。
「私と一緒に来たあいつは…」
「あぁ、彼女なら君が眠ってすぐカストラールシティ付近で降りたよ。」
「…そう。」
「……帰る場所、か。くだらない。」
「え?」
「いや、なんでもないよ。」
そう言って笑ったクリードに多少の疑問を抱きながらも、エキドナは唯一の友と呼べる彼女がこれからも彼女らしく生きれるようにと願った。自分にはない輝きを持った美しい彼女とはもう二度と会うことはないだろう。
彼女のようになれたらとどんなに願ったことか。もしかしたらこの世界を好きになれるかもしれない。そんな夢を抱かせてくれる人だった。
それでも自分はこの男と共に、世界を変えていくと決めたのだ。
彼女のことは、もう忘れよう。
エキドナは無くした記憶を辿ろうとはしなかった。
そしてそのまま革命者の一人として歩み始めたのだ。
「あ、シキさん。昨日くれるって言ったバッグですけどぉ、分厚い手帳以外特に大した中身じゃなかったんで燃やしちゃってもいいですかぁ?」
「別に構わん。私もクリードから処分するように言われただけだ。」
「えぇ〜ゴミくれたってことっスかぁ?酷ぉ〜い!」
――続いてのニュースです。昨夜カストラールシティ海岸で見つかった身元不明の女性水死体について、地元警察では近隣住民への聞き込みを重点的に行い、情報提供を呼び掛けています。年齢はおよそ20代から30代、遺体の損傷具合から数日前に死亡したものと見られており、同署では同年代の行方不明者照会なども始め、遺体の身元を――
20140312
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