つよいひと(g])
小さな組織からのし上がり続け、とうとう世界を牛耳る秘密結社から声がかかった。この日をどんなに待ったことか。その場ですぐに書類に契約サインをし、もとの組織を裏切って潰した後買い物をして帰宅した。
マンションの扉を開けるとシャワーの音が聞こえた。ちょうど良かったと、リビングに入りジャケットのポケットの中身を確認してから、彼女がいつもしてくれるようにハンガーにかけた。

ネクタイをといてソファーに座り、帰りにもらってきた新しい物件情報を手にとった。


「また引っ越し?」


ろくに髪も拭かない状態のまま浴室から出てきたなまえは呆れたように言った。


「長く同じ場所にいると危険だから。」

「だからって1ヶ月経たない内に引っ越すのは勘弁。それならホテル暮らしがいい。」

「何言ってるんですか。ホテルなんてもっと危険ですよ。ホテルマンに化けて殺し屋が入って来るかもしれない。」

「でたでた。あー怖い。これだから恨みを買う男って嫌いなんだよね。」

「僕のことですか?」

「うん。でもシャオリーは好き。」


締まりのない顔で隣に座った彼女は気分がいいのかキッチンからアルコールを持ってきて僕の隣に座った。


「シャオリーまた髪伸びたね。」


なまえに言われて襟足を触ると、なるほど確かに伸びてきている。


「ええ、そろそろ切ってください。」

「ええーまた私が?美容院行きなよ。」

「他人から頭部に刃物を向けられるなんてとんでもない。」

「あーはいはい。わかりましたよー。」


キャミソールからむき出しになった肩がまだ湿っている。白い肌が赤く色づいていてとても色っぽいと思った。


「出世しました。」


彼女がアルコールの缶に口づけた時に言うと、缶に口をつけたままなまえがこちらを向く。
一回瞬きをしたあと、ゴクリとアルコールを飲み込んでつまらなさそうに彼女は目を細めた。


「はいはい。また出世ね。偉いこと。」

「茶化さないで下さい。今回はすごいんです。」


出世をしたとなまえに告げるのはこの数年の間にもう数え切れないくらいしたので、彼女も大して驚いていない。


「もうシャオリーの出世街道にはあんまり興味ないや。エリートでもそうじゃなくてもシャオリーはシャオリーだし。」


で、今回はどんな物件?
住宅情報を僕の手から攫ったなまえは、いつも平気でこういうことを言うからたまったもんじゃない。彼女らしいと言えばそうなんだけれども。


「うわ、何?どうしたの?これ今のとこの家賃の倍以上じゃん。」

「だから、出世したんですって。」

「とうとう組織の裏金に手を出したか…。」

「話聞いてました?」


わざとらしく嘆くふりをした彼女からタオルを奪い、頭をすっぽりと覆って髪をがしがしと拭くと痛い痛いと暴れるのでそのまま抱きしめて動きを封じた。


「…服濡れるよ?」

「いいから、聞いて。」

「うん。」


彼女の顔を見るのが少し怖くて、タオルで顔の見えない体勢のまま話し始めた。


「クロノスにスカウトされたんです。」

「……クロノス。」

「そう。あの、クロノスに。」


僕といるうちに裏のことについて、浅くても色々と知ることになってしまった彼女。僕は常々言っていた。世界を裏で牛耳るクロノスに興味があると。それで彼女も覚えていたのだろう。
クロノスに所属するということは、全世界に敵と味方を作るということ。ある程度の役職になるまでは馬車馬のように働かされるだろうし、今までの倍以上恨みや妬みを買うことになる。もし組織で粗相をした場合はこの世界のどこにも逃げ場がなくなるということだった。


「これから僕といることで、今以上に危険が伴うかもしれない。」

「…うん。」

「こうして一緒にいる時間も減るかもしれない。」

「……うん。」

「もしかしたら明日の今、僕はもうここにいないかもしれない。」

「……。」

「それでも…どんなに君を危険なことに晒すか分かっていても、僕は…我が儘だから。君を手離せない。」

「……。」

「もし、こんな僕にでもついてきてくれるのなら、僕は僕の全力をかけて君を守るし、君に会うために全力で君の元に帰ってくる。誓うよ。」


だから、そばにいて欲しい。

そう言うと彼女は僕の腕の拘束を静かに解いてタオルを頭にかぶったタオルを肩にかけて顔を上げる。その顔は困ったように眉を下げて笑っていた。


「……私は、シャオリーみたいに強くないの。」

「…。」

「今、幸せだと感じるこの気持ちがいつまでも続いて欲しいと途方もないことを願うし、そばにいて当たり前の人がいなくなってしまうのは絶対に嫌。」

「…うん。」

「失うのは、嫌なの。」


抱いた肩から伝わる震えに、僕の心まで震えそうだった。


「でも、強くないから。私は弱いから何も守れないし、救えない。自分も守れない。だから、」

「…。」

「だから、シャオリーの負担になるのは嫌だよ。」

「負担だなんてそんな、」

「そんなことあるよ。シャオリーはきっと私が襲われたら自分を犠牲にしてでも助けてくれる。それはすごく嬉しいけど…悲しいの。それにクロノスは、初めてシャオリーが自分から望んだ場所でしょう?だから私、」


ごめんなさい。となまえは顔を逸らした。


「でも、」

「…でも?」


肩から僕の手を外し、両手で胸の前に僕の手を握った彼女は、まっすぐな瞳だった。


「いつか…途方も無い私の願いが叶うとしたら…」


けれど彼女はその続きを口にすることなく目を伏せてしまった。小さく震える唇は、言葉にすることを躊躇っているのか、言葉を探しているのか。


「…叶うとしたら?」


できるだけ優しく続きを促すと、強く手を握られた。華奢な肩が一回大きくゆっくりと上下したと思ったら、彼女は顔を上げた。続きを口にすることはなかったが、彼女は穏やかに笑っていた。





その日の早朝、なまえはここを出て行った。
彼女がいなくなったベッドは酷く冷たく広い。
いくら強がっても、昨日切ってもらったばかりの不揃いの髪に触れた自分の指先は震えていた。あぁ、もう彼女は戻らないんだ。
ジャケットのポケットに残されたリングは日の目を見ずに眠ることになるなと自嘲した。


『……私は、シャオリーみたいに強くないの。』


僕だって、君が思うほど強くない。
震えた指先は冷たくて、触れたぬるい目尻を冷やしていった。



20140223


あきゅろす。
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