交錯する六つの瞳(スヴェン)
慣れた煙の香りが鼻をくすぐった。
散々愚痴や泣き言を吐いた末に、疲れて行儀悪くカウンターテーブルに伏せていた顔を香りに釣られて上げると、テーブルの上に無造作に置かれた一枚のハガキが目に入る。途端、鉛が落ちてきたかのように胸が痛んだ。
二つ折りのハガキを手にとって開いてみると紙面の右側に大きなマル。自分で書いたくせに、誰かのせいにしてしまいたくなった。
「結婚、しちゃうんだね…。」
「…ああ。」
このハガキを持ってきた張本人である緑髪の男はタバコの煙を吐き出しながら答えた。
大人ぶっちゃってやだなぁ、と思いながら空のグラスを手に取った。
「すいません、これと同じものもう一つ。」
「まだ飲むのかよ。帰れなくなっても知らねェぞ。」
「いーの。今日はとことん飲むの。ほら、スヴェンも何か飲む!」
「ったく、この酔っ払いが。」
呆れた顔で言いながらも、いつものように約束の時間より早めに来て私に付き合ってくれる優しいスヴェンにごめんねと心の中で謝った。
お待たせしましたと出されたカクテルに手を伸ばして私は無意識に時計と出入り口に目を向ける。自分の無意識の行動に驚き、見られてはいなかったかとスヴェンを盗み見るとバッチリと緑色の双眸と目が合った。
「…見ないでよ。」
「……。」
「仕方ないじゃん。いつもの癖なんだから。」
緑色の双眼にじっと見つめられて、ここのところずっと考えていたことを言おうか言うまいか躊躇う。なんて切り出したら良いのだろうか。
「……言いたいことあるなら言えよ。」
スヴェンには私のことなんて全てお見通しらしい。いつだったかスヴェンに、お前はすぐ顔に出るからわかりやすいんだよと言われたことがある。そんなことないと思うんだけどなあ。
「…私、田舎に帰ろうかと思って。」
「またふざけた冗談言いやがって。」
「冗談じゃないよ。」
田舎の父と母が趣味で始めたお店が思いの外繁盛しているらしく、以前から私が電話で仕事の愚痴ばかり零すので帰ってきて一緒に営業をしないかと誘われていたのだ。
上司にパワハラに合おうとも、どんなに男臭い仕事で体力的にキツくても私が踏ん張ってこれたのは“彼”という存在がいたからだ。けれど彼は私になんか目もくれず、可愛い彼女を見つけ、とうとう結婚するのだと言う。
もう一度結婚式の招待ハガキを見る。出席の字についた大きなマル印にまた溜め息がこぼれた。
この職場に入ってからというもの、厳しいことやつらいことが多くて何度もくじけそうになった。何度も逃げ出したくなった。けれどその度に私を慰めて優しくしてくれたのが同期の彼だった。気づくと私は彼に焦がれるように恋していたのだ。初めての恋だった。
「本気、なのか?」
「…結婚されちゃったら、諦めるしかないでしょ。」
スヴェンは息の詰まったように気まずい顔をして、目線を逸らした。
思えば私の初恋は惨めなものだったと思う。私が恋に落ちたとき、彼の瞳には既に別の女性が映っていたのだ。どんなに距離的に近くにいても、私は彼の心に寄り添うことは不可能で。一定に保たれた距離がどうしようもなく悲しくて泣いたことは数知れず。どう足掻いても私は彼の中で「正義を貫くために闘う仲間」だったのだ。
「今抱えてる仕事が終わったら帰ろうかなって思ってるの。もともと女には厳しい職場だったしね。」
「好きでなったんだろう?いいのか?」
「うん。でも、違う正義の見つけ方を探してみるのもいいかなって。FBIじゃなくてもきっと違う正義ってあると思うし、それを探すのもきっと楽しいと思うの。今のまま踏ん張ってみるのも魅力的だけど、新しいことに踏み出すことのほうが今の私にとってはもっと魅力的だし。ま、何を言っても綺麗事なのかもね。このハガキたった一枚でエンジンかけちゃうような女だし。」
ははっと渇いた笑いをこぼすとスヴェンは少し考えて口を開いた。
「…お前がそう言うなら俺は止めねェよ。俺はそういうお前に惚れたんだしな。」
そう言うスヴェンの真剣な眼差しにぎょっとした。以前にも似たようなことを言われていたからだ。
「…スヴェンって、酔うと口説く癖があるの?」
「……さあな。そうかもしれねェ。」
「それ、紳士の名が泣くよ。」
「たまにはいいだろ。」
「少しはロイドを見習って、」
「僕がどうかした?」
これまた別の意味でぎょっとした。
後ろに現れた同期の“彼”は、ごめんごめんお待たせと手を上げると空いていた私の隣に腰掛けた。
「遅かったな。仕事か?」
「いや、向こうの親族に挨拶回りしてたんだ。」
僕も同じものを、と私のグラスを指差して注文する彼を見て先程の決心がぐらりと傾く。まだ。まだ、彼が私の隣に腰掛けてくれる今なら、もしかしたら、
「あ、ハガキ書いてくれたの?ありがとう。」
「えっ、ううん。別に。」
「ったく、ロイド。お前郵送しないなら自分で渡すか口頭で聞けよ。」
「いやぁ、だって家引き払ったから住所ないって言うからさ。でもこういうのって形式に乗っ取りたいし。僕よりスヴェンのほうが会う確率高いかなって思って。」
ロイドの、私が家を引き払ったという言葉に先程家まで迎えに来てくれたスヴェンが怪訝な顔をしてこちらを見る。そのスヴェンの目から逃れるように私はロイドに言った。
「だって決めたんだもん。田舎に帰るって。善は急げって言うしさ。」
「だからって早すぎじゃない?せめて仕事が片付いてからでも、」
「いいの!決めたの!」
「まったく、頑固なところは相変わらずだね。でも、式は来てくれるんだろ?」
ひょいとハガキを手に取ったロイドは、中身のマルを見て嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、マルをつけた自分を褒めてやりたくも貶してやりたくもなった。
仕事をやめて田舎に帰ると言っても、家を引き払ったと嘘をついてもどんなことをしたって彼は私を同僚以上には見てくれないんだ。
最後のブレーキが外れ、とうとう私は進まなくてはならなくなった。
「ロイド、結婚おめでとう。幸せになってね。」
「ありがとう。」
グラスの残りを一気に煽ると私は上着を持って立ち上がった。
「帰んのか?」
「うん。男同士語りたいこともあるでしょう?ロイドが独身のうちに飲めるなんてもう滅多にないんだから。」
「また二人で僕が来る前から飲んでた?ずるいなぁ。僕だけ仲間外れなんて。」
「たまたまだろ、たまたま。」
送ってくれるつもりなのだろう。たまたまと言って腰を上げたスヴェンに、平気だよと伝える。
「スヴェン話聞いてくれてありがとう。」
「話って…もしかしてまた上司になにかされたの?」
「ううん。ロイドに先越されたー悔しいーコノヤローって愚痴。」
「なんだ。妬みか。」
「どーせ妬みですよーだ。じゃあねスヴェン、バイバイ。」
ロイドも、バイバイ。
口には出せなかったけど、心の中で呟いて私は店を出た。
「…引き止められなかったみたいだね。」
眉を下げて言う相棒ロイドにスヴェンは灰皿にタバコを押し付けながら答えた。
「……俺には無理なんだよ。」
FBIという仕事に就いて、大勢の男の中で負けじと働く彼女を見つけた時から彼女の瞳にはこの男が映っていることをスヴェンは知っていたのだ。それと同時にこの男の瞳にも違う女性が映っていることも知っていた。
彼女の相談に乗る親切な友人という役を演じて来たけれど、今日でそれも終わりかと思うと胸が軽くなったような、更に重くなったような気がした。
「…いいの?」
そう問う友がとても羨ましくて憎らしい。
彼女のことなら誰よりも理解してやれる自信があった。些細な変化も気づくことが出来た。けれど彼女の瞳にはどうしたって自分の姿は映らなかった。
「…いいさ。最初から叶わない願いだって知ってたからな。」
「…あいつってば見る目ないなぁ。」
「いや、そんなこたねェよ。」
そう言うと、ポカンとした表情を浮かべる相棒。それはどう見たって間抜け面で、確かにあいつは見る目がないのかもしれないと思った。本当に。もっと違う男を好きになってれば…なんて。
「まあ、今日はとことん飲もうか。スヴェンが諦めるって言うなら、散々言ってきた僕はもう何も言えないしね。」
ぽっかり真ん中の空いた席を挟んで、カウンター席の男二人はその晩、いくつもの言葉を交わした。
交錯する六つの瞳
一席分の空間にそれぞれ何を思うのだろうか。
20130403
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