300号室の住人(サヤ)

お隣の301号室のミナツキさんは変わった子だった。



猫みたいに自由な女の子で、(大して歳は変わらないのだけど)年上の私にも敬語を使わずズバズバとものを言うし、東洋の民族衣装のようなものをよく纏っていた。そして何の仕事をしているのか知らないが、長期で出かけることが多い。なぜ私が彼女をファミリーネームで呼ぶのかと言うと、ファミリーネームの響きが気に入ったのが3割、なんとなくが7割だ。ミナツキさんはその呼び方をフレンドリーじゃないと言ったけれど、私としては親しみを込めて呼んでいるつもりだ。




引っ越して挨拶に向かった日、このアパートにはチャイムというものがついていなくて困ったのを覚えている。古い造りで壁は大分薄いし、窓の立て付けが悪いが、割と発展した町の近くで交通の便はいいし、なんといっても家賃が安い。それだけで決めたのは間違いだったかもしれない。そう、数回目のノックをした時思った。



「しつこいっスね。勧誘ならお断り…」


開いたドアから出てきた浴衣姿のミナツキさんは私を見て目を数回ぱちくりさせた。私も浴衣なんて初めて見たからびっくりだ。なんだこれ、服か、とも思った。


「いやあの、隣に越して来た者です。」


つまらないものですが。と決まり文句を言って菓子を渡すと、驚いて口を開けていた彼女はそのままの顔で受け取った。びっくりしてても受け取るんかい。


「じゃ、これで。」


ご近所付き合いが苦手な私はそそくさと退散しようとしたが、彼女の手によって引きとめられてしまった。


「おいしいおせんべあるからドーゾ。」


おせんべとは一体何なのか。ドーゾってまさか上がってってことなんじゃ…。そんなまさか初対面なのに家に上げるわけ……と思っていたら彼女は私の手を引いて部屋に連れ込むと扉を閉めてしまった。なんて強引な子だろう。
人生初のおせんべと、仲良く出来そうなお隣さんとこうして私は出会ったのだ。








* * *






「あ、なまえさん、おはよ。」

「あ……おはよ。」

「…どしたのソレ?」


昨日散々飲み散らかしたゴミを集めて玄関を出るとミナツキさんとばったり会った。ソレ、とはきっと顔に出来た青アザのことだろう。


「酔ってテーブルにぶつけたの。」


苦々しく笑うとミナツキさんは、ふうんと言った。


「昨日だいぶガタガタいう音が聞こえたから心配したんスよ。」

「ごめんね。つい羽目外しちゃって。うるさかったでしょ?」


そう言うとミナツキさんは渋い顔をした。よっぽどうるさかったらしい。おかしいな、声は出来るだけ抑えてたんだけど…。やっぱり壁薄いから聞こえてたか。次からもっと気をつけよう。



「なまえ、飯まだ?」


ドアから顔を覗かせて寝起きの低い声で彼はうなった。


「あ、ごめん。今作る。」

「ったく、早くしろよな。」

「うん、ちょっと待っててね。あ、じゃあねミナツキさん。」

「あ、なまえさん、今のって…その、」

「兄さんだよ。」


ミナツキさんはきょとんとして、大きな目を更に大きくした。


「てっきり彼氏かと…。」

「…まさか。」


今朝は兄の機嫌がいつもより良かった。昨日のことで発散されたらしい。もしかしたらミナツキさんとの会話を聞いていたのかもしれないと思ったが、すぐにその考えは振り払った。青アザのことを心配してくれた兄に医者に行ったらどうだと勧められたが、引っ越してきたばかりで私は良い医者を知らない。そうだミナツキさんに聞いてみようと思ったけれども、そこまで重症でもなかったので放っておくことにした。










「「あ、」」


最近兄が部屋に入り浸るせいで冷蔵庫の中身が寂しくなってしまった。これはいかんと買い物に出た先でミナツキさんに会った。


「なまえさん、ちょうどいいところに!」


そう言ってミナツキさんは強引に私の手を引いた。なんてパワフルな女の子なんだ。
腕を掴まれた時に思わず顔をしかめてしまったが、ミナツキさんは気づいていないようなので良かったと胸を撫で下ろした。







「あー幸せ!」


そう言ってミナツキさんは美味しい美味しいと、焼きたてのクリームパンを頬張った。私も真似してかじってみる。本当だ、おいしい。そう呟くとミナツキさんはでしょ!と目を輝かせる。


「お一人様限定二個で一日一回しか焼かないし、すぐ無くなっちゃうからさ。私もなかなか買えなくって。」


ミナツキさんは、私にも何度かお裾分けしようとしてくれてたらしい。けれど運良く二個手に入れられてもどうしても自分の欲求に勝てず、家に着く頃には二個とも食べてしまっていつも後悔していたそうだ。なんともミナツキさんらしい話だ。
だから今日二人で合わせて四個買えて良かった、私も二個食べれるしなまえさんも二個食べれる、と満足そうに笑った。


「私ね、今まで友達らしい友達っていなかったんスよ。だからなまえさんとこんな風に仲良く出来てすごく嬉しい。」


二個目のクリームパンを袋から出しながら彼女は言った。


「私も…さ、」

「うん?」

「私も人付き合い結構苦手で…ここまで仲良くなったのはミナツキさんが初めてかも。」

「ふふ、お互い初めての友達っスね!」

「……うん。」


何を恥ずかしいことを言っているんだと思ったけれど不思議と不快な気分にはならなかった。


それから私とミナツキさんはよく一緒に出かけるようになった。主に買い物が多かったけれど、休暇を合わせて旅行に行ったりもした。服を買いに行ったり、限定のクリームパンを食べたり、とにかく毎日が楽しかった。特に町の花火大会に行って二人で見つけた穴場で花火を見ながら飲んだラムネは最高だった。いつしか私は彼女をサヤと呼ぶようになり、彼女も私のことをなまえと呼んだ。本当に、幸せだった。





「なまえ、どうしたのソレ?」

「部屋で転んでさ。」


ソレと指された顔の鬱血部分を隠しながら私は答えた。更にあははと笑うとサヤは渋い顔をした。


「うそ。だってこの間も、」

「ごめん。今度話すから。」


慌ててサヤの口を塞いでそう言うと、むぐぐと睨まれた。

サヤはいつもニコニコしているけれど意外と泣き虫で怒りんぼで子供っぽくて、そして風のように自由な子だった。私もいつしか彼女のように自由な風になりたいと、日に日に思うようになっていった。










「あのね、」


いつものように二人でクリームパンを頬張った後、私は口を開いた。


「私、この町を出ようと思って。」

「え?」

「私、兄さんに暴力振るわれてるんだ。」


だから兄さんから逃げるの。
ほら、と比較的新しい袖の下の傷を見せると彼女はやっぱりと呟いた。


「え、やっぱりって?」

「なまえ、腕掴むと痛そうな顔してたし、よくアザ作って転んだとかぶつけたとか言ってたし。…それに、なまえの声、聞こえたから。」



しゅん、と項垂れて申し訳なさそうにサヤは言った。やっぱり壁薄いアパートはダメだなあ。


「その、ごめんね?」

「なっ!そんな、なまえは何も悪くない!悪くないんスよ!」


兄の暴力が始まったのは両親が亡くなってしばらくした頃。機嫌が悪いと彼は人が変わったように私を殴った。そして気分を晴らすと、元の優しい兄に戻って私にごめんと何度も謝ってもう二度としないと誓い、傷の手当てをしてくれた。その飴と鞭の使い分けで、私は警察に行こうにも行けない状態だったのだ。いわゆるDVの典型。少しの間暴力を我慢すれば兄は優しい。もしかしたら私が兄の気に障ることをしたのかもしれない、そうだそうに違いないと我慢する日々が続いた。
いつしか暴力は性的なものになり、怖くなった私は兄から逃げ出した。各地を転々とした末ここに至ったのだ。




「うん…警察に行こうと思ったんだけど、やっぱり、唯一の肉親だから…。だから私、この町を、」

「なまえはそれでいいの!?だって、なまえは、なんにも悪くないのに…悪くないのに!」

「ごめんね、サヤ。」


殴られたとしても、兄弟なの。私の唯一の兄弟だから。だから、


「最悪っスよ。どうしてなまえが…」


ひっくひっくと泣き出した彼女に何故か私は場違いにも満ち足りた気分になった。彼女は私の代わりにこんなにも泣いてくれる。私の代わりに泣いてくれる人がいる。なんて幸せなことなのだろうと。

変わった子だなんて言ってごめんね。ありがとう。


「サヤ…ありがとう。サヤは、私の親友だよ。」

うわああと泣きついてきた彼女を抱き締めながら、いつかまたここに帰ってきて、サヤにただいまと言おう。おいしいおせんべ持って会いに来よう、そう思った。









* * *








「じゃあ、あとは業者が来るから…それから、もし兄さんが来たら、」

「わーかってる!知らないって言えばいいんでしょ。もー。」

「うん。ありがとうサヤ。」

「ありがとうは聞きあきたっス。もっと別の言葉が聞きたいなー。」


駅のホームで唇を尖らせた彼女。
彼女の格好は相変わらず浴衣で周りの人は彼女を物珍しそうに見た。昔の私みたいに変わった子だなって思ってるんだろうなあ。


「なに笑ってるんスか。」

「ううん。なんだかいつもと逆だなって思って。」


いつもサヤが長期の仕事の時はこうして私が駅のホームに見送りに来ていたのだ。ホームに電車がやってくると、サヤは餞別と言わんばかりに初めて会った日に食べたおいしいおせんべをくれた。


なんだかまた明日にでもサヤとはすぐ会えそうな気がする。そう言ったらサヤはびっくりした顔をしてから笑った。



「当たり前っスよ。親友だもん。」


ドアが開いて私は少ない荷物と一緒に乗り込んだ。


「いってきます。サヤ、大好き。」

「!私も、」


サヤの言葉が終わる前に扉が閉まった。
涙を溜めながらも必死に唇を噛むことで耐える親友。眉の下がりきった彼女に私は一つ、言葉を残した。呟きが届いたのかどうか定かではないけれど、ガラス越しのサヤはイタズラに笑って、いってらっしゃい。と私に手を振った。













『またね。』
『またね。』









なまえが去った後、300号室にサヤの新しい親友が越して来るのはまた別の話。




20111116
20130124 タイトル、部屋番号修正


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