小説という名の日記C(栞機能無し)
8
紘弥の手を振り払った貴宏の視線が父親へと移る。
横たわった儘、微かに身動ぐ血塗れの身体。
父親を目指して貴宏が床を這う。
震えながらも父親へと近付いていく。
紘弥はその様子を茫然と目で追った。
貴宏が父親を抱き締める。
唇が父親の名を象る。
嫌だ。起きて。死なないで。
父親の名を呼びながら、悲痛な音色で繰り返される言葉。
ひっきりなしに零れる涙。
必死になって貴宏が父親を抱き締めている。
ああ、そうだったんだ。
貴宏の姿を目に映しながら、紘弥の胸にすとんと何かが落ちた。
抱き締めて安心させてやりたい。
そう思ったけれど、この腕で抱き締めることは出来ない。
父親を抱き締める貴宏を、父親を刺した紘弥が抱き締めることは出来ない。
紘弥は伸ばした腕をゆっくりと引っ込めた。
だけど今ならまだ間に合うかもしれない。
まだ貴宏の望みを叶えてあげられるかもしれない。
カウンターの上にある電話へと手を伸ばし、受話器を耳に当てる。
刺された場所から全身に広がる痛み。
ずっと我慢しているが、これは父親を助ける為の番号。
この激痛は関係ない。
救急車をお願いします。
住所と父親の名前と刺傷だけを告げて電話を切った。
もう直ぐ救急車が来る。
そしたらきっと助かるから。
聞いているのか分からないけれど、安心させる為に貴宏に語り掛ける。
紘弥の声は、どうやら貴宏の耳に届いたようだった。
もう少しだけ頑張ってと、父親に呼び掛けている。
父親だけを映す瞳が紘弥に向く事はない。
だけどそれは仕方がない。
貴宏の心を占めているのは父親なのだから。
貴宏は父親を愛している。
何年経っても、何をされても、その愛は変わらなかった。
幾ら恐怖を抱いていても、幾ら怯えていても、貴宏は今もまだ父親を愛している。
その証拠に、紘弥が気力を振り絞り立ち上がっても、貴宏は全く紘弥を見ない。
父親だけをその瞳に映している。
倒れそうな身体をふらつく足で支えながら、紘弥が玄関へ向かう。
父親に呼び掛け続ける貴宏の声を聞きながら、此処から立ち去る為にそのドアを開けた。
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