口下手/真田弦一郎
「大丈夫だよ」
ふと、ななしの様子に引っ掛かりを覚えて何のきなしに尋ねてみれば、このような言葉が返ってきた。
一体何が「大丈夫」なのかは分からなかったが、本人がそう言うならと、そのときはそのまま流してしまった。
「大丈夫。頑張るね」
それでも日が経つにつれて少しずつではあるが、以前よりもななしの様子が変わってきていた。それも、悪い方向へ。
少し強く問い詰めてみても、やはりななしの答えは変わらず。いや、「頑張る」という言葉が増えたのみであった。
明らかにななしは無理をしている。それなのに、こういうときに言ってやれる言葉が思い付かない。きっと柳生あたりだったら、ななしの気持ちが軽くなるような言葉を掛けてやれるのだろう。口下手な自分が歯がゆい。
無理をしているななしを見続ける。
少しずつ、緩やかに歯車が噛み合わなくなっていくななしを見続ける。
いつかは壊れてしまうななしの未来を見続ける。
いくら皇帝と呼ばれようとも、中学テニス界最強の男と言われようとも、所詮自分は好いている女一人も支えられないのだ。ラケットを握る手でななしを掴んでも、細い手首は呆気なく折れてしまう気がした。
「大丈夫だから」
何が大丈夫なんだ。そんな泣きそうな顔で言われても、信用出来るわけなかろう。
「頑張るから」
妥協しないお前の姿勢は好ましいが、それ以上は無理を強いているだけだ。お前は十分に頑張っておる。
頭の中では文章として流れていくのに、それが言葉として出てこない。代わりに口を突いて出るのは息が詰まったような、困ったような苦しい声。
その上無意識にとはいえ、眉間に皺を寄せているものだから、余計に不機嫌そうに見えているだろう。「くだらん事を話すな」とでも言いたいように見えているかもしれない。
違う。俺がななしに対してそんな事を思う訳がない。ななしの事ならば、すべて知りたいと思っているのに。今日はどんな出来事があって、どう感じたか。どんなに些細な事でも良いから、ななしが思った事感じた事が知りたいのだ。
それほど愛し慕っているのだというのに、俺の古風な性格のためか、あまりななしには伝わっていないようで。それが悲しくて悔しくてたまらない。
その結果として、何が原因かは分からないが、ななしがこんな顔をしなければならないほどに疲れ果てていた。俺とななしの距離がもう少し近ければ、相談にでも何でも乗ってやったのに。
「大丈夫」
カランと、また一つ小さな歯車が転がり落ちた気がした。歪んだ笑顔で俺を見上げるななしの頬には、堪えきれなかったのか、とうとう一筋の涙がつたい落ちていく。
「…っ…ななし…」
何か、何か言わなければまた誤解されてしまう、と口走ったのは今度はななしの名前であった。それが吉と出たのか凶と出たのかは分からないが、ななしはぽろぽろと次々と涙の玉を溢していく。
溢れる涙とともにななしも融けて崩れていく気がして、強く強く抱き締めてしまう。胸の中から聞こえる「痛い…」というななしの声にさえ、ひどく安心感を覚えた。
何も言えない代わりに、ぎゅうっと力を込めてななしを抱き締める。こうして密着してみて分かったが、俺の心臓はとんでもなく早く脈打っていたようで。逆に、ななしの心臓は静かにトクトクと優しく俺を宥めるように脈打っている。いかん、俺が慰められてどうするのだ。
「…真田くんって暖かいね」
「む…お前も顔だけは熱いな」
「だって、いきなりこんな事するんだもん…」
「あっ!いや、す、すまん!」
言われてみれば、いきなり女子を抱き締めるなど、破廉恥極まりない気がしてきた。あわててななしの背中から手を外そうとすると、俺のワイシャツをぎゅっとななしの手が握りしめてくる。
「いいの。このままが良い」
「そ、そうか…」
甘えるようにななしが俺の胸板に頬を寄せる。そのたびに、ななしの柔らかな髪がくしゃくしゃと乱れていく。そして香る、女子特有の甘い芳香。
言葉には出せなくても、こうしているだけで俺の気持ちが伝わっていく感じがした。テニスでは味わえない静かな高揚感と、甘さで目眩がしそうだ。ななしにも、この幸せな気持ちを片鱗でも味わってもらいたい。
次の日、ななしの歯車は綺麗に回っている気がした。
終
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