書いたもの/落乱
3 .発覚


「楽しいかい?じゅんこ―。」
じゅんこは僕の肩に頭を乗せて、向かい風に当たっている。

昨日の夜中に、じゅんこを連れて近くの神社に向かった。境内の木にムササビが巣をかけているということを聞いて、それを観察しに。

明け方まで粘った結果、なんとかその姿をカメラに収めることができた。初めて行ったにしては大成功だ。

時間は4時半を回ったところ

まだ薄暗い、闇の残る道。このまま家に戻れば、学校に行く前に2時間くらいは寝られる。一回帰るんだったら、わざわざ学生服を着てこなくても良かったと、そんなことを漠然と考えながら、ペダルを漕いでいた。

家まであと少しというところで、見通しのいい十字路に差し掛かった。まだ街は眠っているようで、車通りも人通りも本当にない 。それでも一応左右は見て、僕は道を渡り始めた。

その時だった。自分の背後からタイヤの音がした。それは、一旦停止を無視して勢いよく右折してきた車のものだった。

思いきり、それは、僕たちの方めがけて突っ込んできた

右手で彼女を庇って、とっさにハンドルをきろうとしたけれど、後輪を大きく掬われて体勢を崩して、そのまま自転車ごと弾き飛ばされた。その時に、ハンドルの先端で鳩尾を強く打った。

その勢いで、僕はしばらく気を失ってしまった。


…どのくらい経った?

次に目を開けた時、僕はアスファルトの上にうつ伏せで倒れていた。先程よりも白んだ空と、頬には冷たい感触。視界の端でチロチロと動く、えんじ色の長い舌。

「…じゅんこ、大丈夫…怪我してないか?」

彼女は心配そうに首を傾げた。舌は出したままで、スルスルととぐろを巻く。どうやら無事のようだ。ほっとするのと同時に僕は 自分の置かれた状態を冷静に把握しようとした。

随分と飛ばされたようだけれど、激痛は襲ってこない。あちこちに出来た擦り傷から血が出ているが、手足が折れ曲がっているとか酷い怪我をしているわけではない。あと、頭を打っている感じはしない。

問題なのは、だらりとしたまま力の入らない右肩と、息を吸うたびに肋骨のあたりがずきずきと鈍く痛むことくらいだ。

なんだ大したことない これなら自力で家まで辿り着けると、そう思った。でも違った。


多分さっき打ったであろう腹部。そこに、吐き気を伴う違和感を覚えて、背中を冷たい汗が伝った。

相変わらず辺りに人影はなかった。そういえば気を失う瞬間に、車がバックして急発進する音を聞いたような…。ああ、当て逃げされたのかと、やっとそこで思考が噛み合った。

今はまだ大丈夫だとしても、これからどうなるかは分からない。ここは動かず助けを待つべきなのか、それとも何とかして家に帰るべきなのか。じゅんこが心配そうに身体を寄せてきた。

先程より強く、腹部がきりりと痛んだ。そのせいで視界が一瞬狭くなる。

「…ここに入ってて、じゅんこ。びっくりさせてごめんな。でも、大丈夫だから。」

肩に掛けていたメッセンジャーバックの隠しポケットにじゅんこを入れて、ファスナーを閉めた。こうしておけば、例え僕が意識を失っても、誰かがじゅんこを家に帰してくれるだろう。

世の中には、僕には想像がつかないけれど、じゅんこのような生き物を苦手とする人もいるようだし、もしそんな人がじゅんこを見つけたりしたら、驚いて追い払ってしまうかもしれない。こうしておけば安心だ。


ふっと息をついて、痛み始めた腹部に手を当てた。ひょっとして内臓がどうかなってるんじゃないだろうかという不安が頭をもたげてくる。

どんどん夜は明けてくるけれど、誰かが来る気配はなかった。意を決して立ち上がろうとしたけれど、どう頑張っても膝と左腕に力が入らなかった。自分にかかる重力が急に強まったような、奇妙な感覚。

一瞬脳裏に浮かんだ「死」という一文字を、慌てて思考から弾き出す。僕は黙って目を閉じて、時間が過ぎるに任せた。







どのくらいそうしていたか分からない、実際は数分だったかもしれない。しかしその長い沈黙は、唐突に終わりを迎えた。靄のかかった視界の奥から、車の近付いてくる気配があった。

待ちに待った数秒後。激しくドアが開いた音がして、二人分の足音がバタバタとこちらに駆け寄ってきた。

『君、大丈夫?!』

良かった助けが来たんだ、と思った瞬間、急に強い眠気に襲われて、目を開けていられなくなった。声のした方に顔を向けて、かろうじて何か一言二言、話せたように思った。ただ、それがちゃんと伝わったのかは分からない。

まどろみの中に落ちるような、後味の悪い目眩に襲われて、僕は再び気を失った。




―…太陽が西の空を染め出した頃。

「あの中学生、意識戻ったんだってな。」

本日何回目かの執刀を終えた食満に、後ろから小平太が声を掛ける。

「ああ、まだ朦朧とはしてるらしいけど。家族は?」

「今付き添ってるよ。そうそう、警察ももうじき事情聴きに来るって。」

「あ―…、分かった。」

そう言い捨てて、彼は血糊の付いたラテックスの手袋を手から剥ぎ取り ゴミ箱に投げ込んだ 。

その真下をスルスルと横切る細い影には、まだ誰も気付いていなかった。



ちょうど同時刻

仮眠室から蘇った伊作は、ベッドサイドに立っていた。

「伊賀崎君、ここ病院だよ。分かるかな」

「…はい。」

思いの外はっきりと返答があった。意識は回復したばかりだが、目の焦点がちゃんと合っている。これなら問題ない。彼は安堵して、続けた。

「手術したばかりだし、しばらくは入院してもらうことになるけど そんなに酷い怪我じゃないから安心してね。何か変わったことがあったら遠慮なく言って。すぐに対応するから。」

「ありがとうございます、…あの、じゅんこは、どうなりましたか?」

「…じゅんこ?」

誰のことだろう、と伊作は首を傾げた。

「ペットなんです。あの、はねられた時に僕が背負ってたバッグって」

「ああ、それなら」

彼は、ベッドサイドに置かれたメッセンジャーバッグを指差した。

「君が運ばれてきた時に一緒に持ってきてたんだけど、これのことかな」

「はい、それです。」

「ご家族に連絡するために、学生証とか見せてもらったけど それ以外は何も触ってないよ。」

「あの…中身…、見てもいいですか?」

「 はい。どうぞ。」

孫平は隠しポケットを確認してみたが、そこに彼のペットの姿はなかった。良く見ると、ファスナーが完全には閉まりきっておらず、数センチほどの隙間が開いている。

「居ない…まさか…じゅんこ、逃げ…」

「居ない!?、あの、(じゅんこ)ちゃんて、ペットのハムスター とか?…」

「いえ、あの…」

孫平は伊作の耳元に小さく呟いた。

「蛇です。」




伊作が、今までになく鬼気迫る表情で、なおかつ蹴破るような勢いで医局のドアを開けたのは、「蛇です。」の一言を聞いてからジャスト90秒後のことであった。

それがあまりに勢い余っていたため

ソファーに腰を降ろそうとしていた食満、シンポジウムだかセミナーだかに連れ出されたために 普段より寡黙になっていた長次、ドリップコーヒーにお湯を注ぐ作業の真っ最中だった文次郎、珍しくホットコールの鳴らない夕暮れ時を満喫していたそれぞれが、

不意をつかれて腰をしたたかに床に打ちつけ、床に落ちていたコピー用紙を誤って踏んで滑り、また、利き手に熱湯を手に浴びせかける…などの甚大な被害を被った。

「おまっ、何をいきなり!!死ぬかと思ったわ!!」
「なぁ、っあっづ!!熱っ!!ちょ、馬鹿!!」
「…腰が痛い…」

「「…伊作、てめぇ…。」」

「あ、ご、ごめ…じゃない、それどころ、そ、そう それどころじゃないんだよって!!!留さん留さん留さんんん!!」
「ちょ 首を絞めるなぁぁぁ!!!」

3人が半狂乱の伊作を食満から引き剥がすのに手間取ること約一分。互いにぜ―ぜ―息を切らせながら彼を床に座らせ、潮江はことの詳細を問うた。

「で、なにがあったんだ」

「…、逃げた。」

「…は?」

食満が、気の抜けたような声を出す。

「今日、朝イチで運ばれてきた中学生の子の…ペット…逃げちゃったんだって…多分、病院内で…。それで…その…逃げたのは、(蛇)だって。」

誰も何も言わなかった。否、言えなくなった。その瞬間、確かに医局の空気は 絶対零度下の如く凍りついた。

「あ、ちなみに(毒、あるの?)って聞いたら、(じゅんこは人噛まないから大丈夫です)って言われた…」

「お前 それは毒あるってことだろ―が…。」

「え…、なんで」

「…だからな、毒が無いなら(無い)ってはっきり言うモンなんだよ人は。(噛まなきゃセーフ)ってことは、(噛んだらヤバい)ってことだろ!!つまり、あるんだよ、毒が。毒蛇なんだよ、そいつは!!!」

「…どうしよう留さん」
「俺に聞くな」

「とりあえず何とか探すしか無いだろう。」

文次郎の言葉に長次も頷く。

「何かあったら管理責任問われるぞ、分かってるよな」

食満が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて言う。

「俺ら何もしてないよ…」と伊作。
「そういう問題じゃね―んだよ。もし事故でも起きたらだな」

「…この病院が、潰れる…。」
食満が言わなかった一言を、代わりに長次が呟いた。

潰れる、潰れる、潰れる。

呪いのように4人の脳裏にこだまする三文字
後押しされるように彼らは立ち上がる。



…それは、静かなる闘いの幕開けであった。誰も知らない、一夜の追跡劇は こうして始まったのである。






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09/09/12

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あきゅろす。
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