[携帯モード] [URL送信]
小説とか映画とか好きな人がえらい適当な話をするよ
2008-06-27(金)
汗ばむ鳥籠外伝を追加いたしました。

汗ばむ鳥籠、要望があったので書いていた外伝をおまけとして追加しました。掲載するのが遅くなってしまって、すみません。

*****
 残響。
*****

 障子を開けると、最愛の女性が喉を掻っ切っていた。“彼”はしばし呆然と立ち尽くし、みるみるうちに彼女の血を吸っていく布団と、彼女の茫漠とした表情とを凝視した。
「あ、うああ……」
 彼女の傍には、彼女の介護を手伝うために医師が呼んだ青年が、蒼白の唇を歪めている。青年の愚鈍な呻きに、彼はようやく身体を動かした。一歩、また一歩と進むごとに、彼女が自身の喉に押し当てているものが剃刀で、剃刀は彼女の喉から血を滴らせていて、剃刀の周囲は赤い柘榴のように開いていることを知る。無残で美しい傷口から留め止めなく血が流れ、はひゅうはひゅうと呼気が漏れるのを、彼は見下ろし、首を捻った。捻りながら、彼はだがそれを疑問だとは感じていなかった。来るべき時が来たのだと、彼女の病が発覚したときから決まっていた定めがやって来ただけなのだと悟り、無意識に観念していた。
 ああ、そうだ。そう思ったとき、自然と彼の身体は動いていた。彼女の前に跪き、彼女の喉を食らう剃刀を、剃刀を抱く華奢な彼女の指先を包み、押し倒した。
「ひい……!」
 傍らで青年が息を飲んだが、彼には聞こえなかった。ただ一心に、泣きもせず力を込め、静かに彼女の血を浴びる。彼女の血に染まる。全てはそう、決まっていたこと。温い鉄の匂いの中で、彼は小さく微笑した。もし自分が狂ったら、殺して欲しい。そう彼女が望んでいたから。
 けれど、けして一人には、しない。
 彼は乱れた布団を整えながら、その身体を抱えあげた。うたかたのように軽い彼女に、少しだけ驚く。昔は、出会った頃は、自分と変わらない重さのある少女だったのに。
彼が大きくなったのか、彼女が小さくなったのか、その両方なのか。それとも……。
「人殺し……、人殺し……」
 青年が蠅に似た動作をしながら、震える。その呟きを背に、彼は彼女と散歩に出かけた。彼にはやるべきことがいくつか残されている。彼女を失えば何もなくなるだろうと想っていたはずなのに、たくさんのことをやり残すような生き方をしてしまった。
「悪いが俺の我侭に、少し付き合ってくれ」
 心臓を止めた彼女に囁く。彼女は苦悶の表情を浮かべていて、彼にはそれが嫉妬のように思えて愛おしくて、心が晴れやかになる。これほどまで澄んだ感覚は、何年ぶりだろう。
 部屋に戻り、謝りながら大き目の布袋に彼女を入れ、血を軽く拭ってから着替える。そしてやるべきことのひとつを終えてから、街を出た。
 愛しい人を担ぎながら、彼は人の多い街を歩き始める。季節は冬で凍えるほど寒いというのに、何処を行っても人が行き交い、人生の色と匂いに満ちている。冷たい街はこんなにも瑞々しく、温かいものだったのかと彼は思う。
「なぁ、綺麗だな……」
 郷愁のような感覚が胸を締め付けて、耐え切れず彼は溜息をついた。吐息は白んで、空気に溶け込む。惚けたように歩いていると、彼は目的の場所に辿り着いた。
 瓦屋根に白塗りの壁の、店だった。老舗の風格を呈し、大きな暖簾と看板が架かっている。それらをくぐって中に入ると、多くの人でごった返していた。店番の一人、男が彼に目を合わせると、跳ねるように立ち上がった。
「あなたは」と男は目を丸めると「こちらにどうぞ」
 思ったよりも機敏な様に、彼は軽い安堵を覚える。門前払いになるかもしれないことも考えていたからだ。
彼は中庸ではない。大柄で、髪も髭も不精に伸びて、眉間には猛禽のような皺が寄っている。無頼そのものの様相である。少なくとも男の店を尋ねられる格好をしていない。体よく追い払われても仕方がない。そんな彼を案内したということはつまり、彼にとって目的を達成するに相応しい男ということだ。
 彼の予想を裏切らず、誰も居ない座敷の障子を閉めて開口一番、男は「どうなさったんですか」と訊ねた。
「頼みがあって、来た」
「頼み?」
「あの子に惚れているのなら、生きる意味を伝えて欲しい。あの子にとって、生きるも死ぬも同じことだ。止めてやってくれ」
 彼の言葉に男は眉根を顰めた。素早い反応だ。何のことか、理解したのだろう。
「俺は上手く教えてやれそうにない、そういう生き方を選べなかった」
「あなたは、何者なのですか。彼女の何なのですか」
 男は唇をわななかせた。嫉妬、あるいは憤りを含む口調は、針のように冷たく鋭い。当然だ、彼は男にとって、実に重大な発言をしている。穏やかそうな男の、気高い矜持を魚出るような言葉を。
「俺は、あの子を」
 つばを飲み込み、続けた。
「娘だと思っている」
 驚愕に男が蒼白になる。
「娘……?」
「落ち着け。血は繋がっていない。それにこれは、俺の勝手な言いがかりだ。あの子は知らない。知らせないように、育てた」
 男が膝をつく。彼もまた、男の前に座り、視線を合わせた。ゆっくりと、染み込ませるように言葉を紡ぐ。
「あの子は、口減らしだ。それを俺が買って、育てた」
「それは……。それじゃあ、ただの人買いでしょうに」
 厳しく、的確な返し方。彼は独白の前に冷静でいられる男の度胸に、胸が躍るのを感じた。良い男を見つけたものだと、誰がために夢想する。
「だから言いがかりといった。これは賭けだ。無謀で、……もう無意味だ」
「どういうことです」
「鳥籠は何のためにあると思う? 鳥を飼うための場所だと思うか?」
「何を……」
「己を誇るためか、躾けるためか、愛でるためか……、なんのためか」
「何を!」
  噛み付ように声を荒げる男に、彼は落ち着き払って答えた。
「吉原は鳥籠だ。鍵はもうすぐ開く」
更に続けようとして、彼は唇を噤んだ。障子の向こうから聞こえる店先の音が変わり、耳をすます。どうやら店が終わる頃合いらしい。致し方なく、彼はよろめくように腰をあげた。男は彼に懇願に似た視線を絡めているが、彼は気にせず障子に手を掛けた。
「あなたはこれから、何をするつもりですか!」
たまらず、男が身を乗り出す。しかし彼の袖を掴むには緩すぎた。男が知るべきことは既に語られていた。だから彼は振り向くことなく、一言だけ置いた。
「誓いを尽くす」
 障子は開けられ、高い音を響かせて閉じた。
 彼が街に再び出ると、ちらちらと雪が踊っていた。可憐なそれは暗雲から生まれる。黒くうねるそこから、どうしてこんなにも純白で儚いものが舞い降りるのだろう。男は幼い疑問を抱き、赤ん坊を背負いなおすように布袋を上げた。
「雪国は貧しくて、食べるものがないと言っていたな。みんなひもじい思いをしていると。本当に、そうだったよ。こんな寂しい、暗闇のようで」
 虚空を仰ぐ。
「だけど、お前たちを。……めんこいものを、生むんだよな」
 野獣のような彼の背中は、酷く困ったように、どこか嬉しそうに、窮屈だ。荒くれ者にそぐわない少年っぽい仕草で、彼は首を竦めると、歩みを進めた。最後に行く場所は何年も前から決めていた。迷うことなど、あるはずもなかった。
 月もない。灯もない。漆黒の中に水の流れる音がする。目が闇に慣れてしまうと、さめざめとした墨汁色の川が目の前に広がっていた。そのたもと、土手の下まで降りると、腰を下ろす。夏ならばよくいる、蛍もいない。彼は漸う、彼女を下ろした。彼女の身体は硬く固まり始めていて、布袋から出すのに苦労する。
「待たせて、すまなかったな」
 抱きしめてみると、すっぽりと胸におさまってしまう。極限まで痩せた身体は加えて、醜く臭い。普通の人間なら目を背けてしまう彼女をあやすようにして、彼は川を眺めた。
形骸を失っていくように、彼は自分自身が脱力していくのを感じる。そうして、心のどこかが途方にくれているのを知る。ああ、少しは戸惑っていたのだと。ずっと、迷っていたのだと。もう、終わりで良いんだと。
彼女の体温が、強く沁みて、
「相変わらず、手が冷たいなあ」
気付けば彼は泣いていた。
子どものように号泣していた。
「愛してる、こんなにも愛しているんだ。ずっと、ずっと愛していたのに」
 切なる思いに、慟哭に、しかし彼女は返事をしてくれない。何故だろう、何故こうなってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。一体、どうしてだろう。
「お願いだ、死なないで。お願いだから」
 絶望に喰われる。魂まで強姦される。あの日の記憶が、千切った猶予が、彼をさいなむ。
「お願いだから……あなたを、愛しているから……」
 傲慢な渇望。彼女を撫で、縋りつく。
だから、彼女は、
「おらも、とらさまとしたいことがあります」
 笑った。
「……ん?」
 振り向き、潤んだ瞳で微笑む彼女に、彼はきょとんとした。彼女は、赤い頬を更に赤くさせる。
「熱が下がったら、雪を見ましょう。春になったら、桜を見ましょう。その後に、もし、おらの身体が瘡毒でなかったら……、弟や妹を、迎えに行きてぇ」
「弟や、妹?」
「北に残してしまったから。もし、もし生きとったら、おらが引き取りたいんです。お江戸なら、このお江戸なら、きっとなんとかなるでしょう?」
 彼女ははにかむと、
「一番下だと年だいぶ離れてっから、もしかしたらまた生まれてるかもしんねえから、おらが、おっかあの代わりで。そしたら、みんな喜びます、はい」
 それから不安げに顔を伏せたまま彼を見上げた。
「ご迷惑はかけませんから……」
 唐突な彼女の願い事に、彼は眉を下げる。その反応に彼女ははっとして、俯いた。その動作がまるで叱られた子猫のようで、慌てて、
「違う、違う!」
 彼女の両頬を手で覆い、仰がせた。
「おっかあってことは、俺がおっとうだなぁって、思って、嬉しくて、ごめん」
 みるみるうちに、彼女の表情が緩んでゆく。まるで花のように咲き誇る、笑顔。そんな彼女が可愛くていじらしくて、
「そうだな。熱が下がったら雪に、桜に、北へ行こう。お前としたいこと、お前と合わせたらもっともっと増えるな。百年じゃあ足りない、これじゃあまるで……」
 彼の頭の中に、ある言葉が浮かぶ。今の思いを形容するには、この言葉以外ないように思え、彼は運命的な驚きに痺れ、口にした。
「千年の恋だ……」
 人は死ぬ。百年も経たずに滅びる。だが肉に、魂に、こんなにも熱い思いを抱くことが出来るのか。灼熱より熱く、雷撃より眩しく、どれだけ抱いても果てそうにない思いが。そして思いを共有することが出来る。
 彼は感動に打たれ、強く強く彼女を抱きしめた。彼の愛情に彼女が呼応し、寄り添う。死ですら二人を分かつことは出来ないと証明するかのように。二人は抱き合い、そっと口付けを交わした。
唇と唇が繋がり、もつれ合い――、
……冷たい。
 硬く、冷たく、全ては狂おしいほどに苦しい。彼の眼前にはただ、暗澹たる現実がある。自分で命を絶とうとした愛しい女性、彼女の命を奪った元凶である自分、錆付いた空想すら無碍にする悲壮、土塊のように冷えた、笑顔。
それらが逆らえぬ濁流のような人生そのものとなって茫漠と圧し掛かり、矮小な一人の男を噛み砕こうとする。
 しかし。
 一筋の光がある。何も出来なかった彼が、必死に抗い残した希望がある。自分ですら行動の理由を定かに出来ず、がむしゃらに隠し守り続けた、誰も気付かない密やかな愛が残されている。
 生きてそれに会うことはもう叶わない。守るために強固な場所に自らが閉じ込めたのだから。自分を偽りながら選んだあの場所に。あの鳥籠に。
悔いることはない。そうだ、……ただひとつを除いて。
「もっと、おぶってやりたかったなぁ」
 彼女を抱きかかえ腰を上げると、闇へと悠々、歩き出す。先ほどまで丸まって小さかった背中は大きく。
彼らしく大きく、どこか、笑っているようだった。

「汗ばむ鳥籠外伝を追加いたしました。」へのコメント

By 牧屋美邦
2008-07-20 17:29
わぁ、今頃になって外伝に気づきました!(遅い…
本編を思い返して、しみじみしました。
本編の連載中から「とらいち」の脳内イメージは、ずっと綿引勝彦でした。
年齢がチガウダロ……と自分でも思うのですが(笑
なぜか結びついてしまって離れません。
あの、いかめしいお顔がなんだかピッタリ(ただし、もちょっと若ければ)

ステキな外伝、読めて嬉しかったです。ありがとうございました。

[編集]
[1-10]
コメントを書く
[*最近][過去#]
[戻る]

無料HPエムペ!