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◆天帝と樫山・3◆

 目には見えぬ程にゆっくりと、しかし着実に季節は巡ってゆく。
 つい先日の同時刻にはまだまだ高い位置にあった太陽も既に傾き始めており、眼下に広がる景色もうっすらと赤味を帯びていた。
「陛下、そろそろ」
 打ち合いが一段落ついたところで樫山が声を掛けると、天帝もまた頃合いと判断したのか己の剣を鞘に収めた。
 久し振りに剣型を披露した事を発端として始まった二人の稽古は樫山の当初の予想以上に長く続いており、今日もまたささやかな空き時間を見つけた天帝に呼び出され、執務室の入る建物の屋上に登っていたのである。
「左手、まだ痛みますか?」
「いや、大丈夫だ。全く問題無いよ」
「‥‥失礼します」
 樫山の指摘にそそくさと左手を背後へ隠そうとした天帝だったが、一瞬遅かった。そっと手首を触られただけで、思わず顔をしかめてしまう。
「やはり捻っていましたか。‥‥申し訳ありませんでした、陛下」
「いや、樫山は悪くない。俺が受け止め損なって勝手に転んだだけだ」
「しかし陛下、」
「それより樫山」
 なおも謝意を述べようとする旧友の言葉を遮ると、天帝は些か不本意そうな表情を浮かべた。「ーーお前、その『陛下』と言うのは、何とかならないのか」
「と、仰いますと?」
 話の矛先が分からず、思わず樫山は主の顔を見つめてしまう。
「もう随分と長い間、皆から『陛下』としか呼ばれていない事に最近気付いたんだ」
「帝妃様は何と?」
「陛下か、偶に『お父様』」
「宜しいではないですか」
 何ら問題の無い、むしろ家族としての愛情が感じられる呼び方だ。相槌を打つ樫山に、だからな、と天帝は続けた。
「だから樫山、俺の名前を呼んでくれ」
「‥‥申し訳ありませんが、不敬罪に当たりますのでお受けいたしかねます」
 何がどうしたら『だから』になるのかという突っ込みはさておき、臣下としては到底聞き入れられないと断る樫山。
「良いじゃないか、今なら他に誰もいないんだし」
「そういう問題ではありません」
「学舎に居た時は何度か呼んでくれたじゃないか」
「あの頃はまだ皇太子でらっしゃいましたから。それに基本的には『殿下』でしたよ」
 『名前で呼んでくれないと授業に出ない!』と駄々をこねられ、渋々その名を呼んだ事を記憶の奥底から引っ張り出した樫山は、何となく嫌な予感を感じ始めていた。ーーこの状況、確か諺にあった気が。
「それより左手をお見せ下さい。急いで手当てを、」
「名前を呼んでくれないと手当ては受けないぞ!」
「‥‥」
 一国の主らしからぬ幼稚な主張に、樫山は一瞬目を見開き‥‥そして、溜息をついた。ーーああ、そうだ、思い出した。『歴史は繰り返す』。
「陛下」
 促すように穏やかに呼んでも、主はそっぽを向いたままである。その頬を更に高度を下げた太陽が朱色に染めてゆく。
「‥‥」
 天帝たる自覚を。三児の父親でしょうに。御歳幾つになられましたか?‥‥幾つか思い浮かんだ言葉を、しかし樫山は口にせず暫し黙り込んだ。
 やがて視線を上げると、一歩、天帝の方へと大きく踏み込む。
「おい、樫や‥‥」
「ーーー」
 耳元で素早く小さく囁くように、その名を呼ぶ。
 途端、それまで散々ごねていた主が面白いぐらいにぴたりと動きを止めた。
「これでよろしいですか?陛下」
「あ、‥‥ああ、うん、」
 希望が叶えられたと言うのに、何故か歯切れ悪く言い淀む天帝。
「?如何されました?陛下」
 不思議そうな表情を浮かべる樫山に、漸く動揺の収まった天帝は睨む様にその顔を見上げた。
「お前、やらしいな」
「、は?」
「そうやって綾菜殿も口説き落としたのか。そうか、そうに違いない」
「妻は関係無いかと存じますが‥‥それより陛下、」
 言うや否や、樫山は有無を言わさぬ勢いで、主の左腕を掴んだ。
「御名をお呼び致しましたので、手当てさせて頂きますよ?」
「仕方ないな」
 根負けしたとばかりに、降参と両手を挙げる天帝。


‥‥その頬が相変わらず赤いのは、夕陽のせいばかりでは無いようです。



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