「別れましょう」

唐突に後頭部へと投げ掛けられた言葉に、榛名は「へ?」と間抜けな声をあげた。
振り返るとそこには左手が伝える感触通り、榛名と手を繋いだ阿部が立っており、真っ黒なその瞳に榛名の間抜け面を映していた。

「今、何つった?」
「こういうこと、もう終わりにしましょう」

阿部は自身の右手から力を抜き、手を包む左手の熱を振りほどく。
こういうこととは、繋いでいた手のようなことをいうのだろう。

「何言ってんだ?」
「俺もアンタも、もう二十歳過ぎです。いつまでも火遊びしてる場合じゃないでしょ」
「遊び?」
「本気だったなんて言いませんよね。まさか」

阿部の顔が歪む。嘲笑。
薄い唇から濡れて光る犬歯が覗く。
阿部が醜く笑ったことで、瞳に映る榛名の顔が歪み、余計間抜けになった。

「では、そういうことで」

先程まで榛名の手を握り返していた右手を阿部は振る。さよならと。
少しだけ丸まった指が左右に三、四回揺れる。
ただそれだけの仕草を残して手はポケットの中に消えた。


互いの気持ちを伝え合うのにかかった時間に対して、別れは驚くほど呆気なかった。
去り行く阿部の背中をただ呆然と見送ることしかできなかった榛名の目蓋の裏には、いまだ阿部の幻影がちらつく。
「アンタって、自分勝手でオレサマで、馬鹿だし意地悪いし、正直言って好きになれる部分があまり無いです」と、憎まれ口を叩くのだ。しかし最後に「だけど、嫌いではないです」と雨粒が落ちる音よりも小さな声で呟いて耳を赤くする。
この幸せで残酷な幻影、しかし少し前までは間違いなく現実であったことを伝える記憶は、未練というのだろう。
榛名は、阿部言うところの「まさかの本気」で阿部と付き合っていた。

『俺は元希さんに嫌いなところなんて、無いです。全部、ぜーんぶ大好きです』

憎まれ口を叩くその低い声と同じ声が奏でる毒のように甘い言葉に榛名は目を開いた。

『元希さん』
「タカヤ……?」
『元希さん、元気出してください』
「タカヤ!」

そこには薬指ほどの大きさの阿部がいた。
落ち込む榛名を慰めようと、小さな手で懸命に頭を撫でてくれていた。

「小さくね?」
『俺は元希さんの妄想ですから。幻覚っていってもいいかな。元希さんが小さな俺を望んでいるから、俺は小さいんです』

妄想のタカヤが説明する通り彼の外見は、現実の阿部に比べて目が大きく表情も幾分柔らかく、どちらかといえば阿部より阿部の弟のシュンに似ていた。つまり中学時代の榛名だけを真っ直ぐに見つめていた阿部隆也に似ていた。

「……妄想か」

がっかりして再び夢想に耽る榛名に、阿部は囁く。

『妄想ですので、俺は元希さんを絶対に裏切ったりしませんよ。いわば、元希さんの理想の阿部隆也です』
「裏切らない?」
『二人で、ずっと、幸せになりましょう。元希さん』

小さな阿部が自身を理想と称したように、それはまさしく今榛名が最も欲しい言葉だった。





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