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ネタメモ
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紳竜の研究 M-1グランプリ必勝法
By 話題
2020-09-06 04:47:00

宮城県ローカルで放送されている深夜番組「裏影」(東日本放送)では、レギュラー出演している在仙のお笑い芸人、ハンプティダンプティ(ティーライズ)がM-1グランプリ2008に挑戦した模様を10月30日、11月6日の2回に分けて放送した。11月6日放送分には昨年のM-1覇者であり地元の雄でもあるサンドウィッチマン(フラットファイヴ)も登場。地元でがんばる後輩たちにエールを送った。

 審査結果発表の前にステージに上がったサンドの2人。今年はM-1に出ないのかと問われ、連覇などできるわけがない、優勝しないとなにも得がない、などと軽妙なトークで会場を沸かせていた。そして、問われるままにM-1必勝法を明らかにしたのだ。

 まず第一に、M-1専用のネタを作ること。最近のショートネタブームを思えば4分は長く感じられるかもしれないが、漫才を披露するにはけっして十分なサイズではない。そこで、M-1で披露するネタはM-1仕様にアレンジを加え、スピード感を出すことが大切なのだそうだ。

 そして「紳竜の研究」というDVDの存在。今やプロデューサーとしても高い評価を受けている島田紳助(吉本興業)と、「紳助・竜介」時代の相方である故・松本竜助との足跡を振り返る内容となっている。人気絶頂期の紳竜の漫才や、島田がNSCで行った特別限定授業なども収録され、まさに漫才の勉強にはもってこいの教材というわけだ。

 サンドはM-1予選会場のステージで、このDVDを見ていさえすれば1回戦で敗退することは絶対にないと高らかに宣言。その真偽のほどは明らかではないが、確かにそのDVDを見ていたというハンプティは見事1回戦を突破していた。ここ数年、爆発的にアマチュア参加が増えているM-1だが、これから挑戦してみたいと考えているのなら、まずはこのDVDを手にとってみるのもいいかもしれない。

 残念なことだが11月8日午前11時現在、ハンプティをはじめ東北予選を突破した10組中8組の2回戦敗退が確認できている。東北予選はほとんどがアマチュア、またはインディーズという性質上、それは仕方のないことなのかもしれない。地方予選から勝ち上がってきたアマチュアコンビが決勝進出、などといったことになればおもしろいと思うのだが、2006年のあの凍りつくかのような会場の雰囲気を思うと……。

 しかしサンドだって無名のまま登場し、優勝をかっさらっていったのだ。本当におもしろければ、そこにはプロもアマチュアもないはず。地方在住の芸人&卵たちよ、立ち上がれ。来年のためにとりあえずはDVD、か?サンドウィッチマンがM-1でしたこと

 5分以内のネタでたたかうM-1というシステム、予選から言えば2分、3分で競うM-1の漫才というのは、間違いなく漫才自体の進化を早めたと思う。
 M-1は「手数と独創性」を重視しているコンテストであることは一目瞭然である。

 一昔前、「手数」を競うということでは、漫才コントが主流だった。漫才コントは、「設定」さえきちんと聞き手に認識されれば、「その設定での通常の行動パターン」が活性化されるので、フリがいらなくなる。したがって時間内に手数を盛り込むのに有効だったわけだ(やや専門的に言うと、スキーマの活性化を利用したネタ、といえる)。

 しかし、漫才コントの時代は、アンタッチャブルで終止符を打とうよ、というメッセージがM-1にはあった。少なくとも漫才コントをやるのであれば、アンタッチャブル以上の手数と完成度、そして独創性が欲しい、と。

 こうしてM-1は、漫才の独創性を、その原点である「しゃべくり」に求めはじめた。
 それは決勝に残っているメンバーを見れば明らかなことなのだが、それに加えて現場での受け、人気、年間通しての活躍、そういった視聴率を見込めるコンビが選ばれるわけだから、決勝に選ばれるのは簡単なことではない。しかも、出すぎていてはそれはそれで「M-1発」という実績にならないので、変に実績を残すと難しい。

 そう、いま漫才をすることは、「漫才コント」をやるか、「しゃべくり」でいくか、その二択しかない。

 そこで現れたのが、「ブラックマヨネーズ」であり「チュートリアル」だった。彼らの漫才は終始「しゃべくり」で展開され、「じゃあお前○○やって」みたいな設定がほとんどない。「しゃべくり」の型で手数が多いものが好まれ、こういった形がいわゆる「フリ、ボケ、ツッコミ」それ以上でも以下でもなかった漫才を、歴史的にすこーしずつ進化させた。
 手数は少ないがPOISON GIRL BANDなども「しゃべくり試行期」で評価されたコンビに違いない。

 「キャラ」とまでベッタリと作ってはいないが、しゃべる人間には二人にたしかな個性があり、口から出る言葉までもその個性を裏切らない。
 歴代優勝者の変遷を見ても、アンタッチャブル以降はしゃべくり型が重宝され、そして説得力のある勝ち方をしてきた。どのネタを演じても、「らしさ」が出るネタ、それでいてしゃべくり、二人のいる「意味」が必ず保障されているものが選ばれた。
 しかし、サンドウィッチマンはそこへきて、「漫才コント」を「もっと掘り下げる」という方法論をもって、「しゃべくり」移行期に一石を投じた。

 漫才コントの利点は、実際のコントと違って、ツッコミ役の修正が可能で、設定前の「通常時二人」に戻れるところである。
たとえば、おぎやはぎの「結婚詐欺師」のネタを例にすると、


矢作 結婚詐欺師ってのはね、
   だいたいあの、パーティー会場とかに現れるんだってよ
小木 あー、はいはいはい
矢作 独身の女性がいるんだって、けっこう
小木 うんうん
矢作 だからそういうとこでちょっとまず、
   オレ、をひっかけるとところからやってみようか
小木 なるほど、わかったわかった
矢作 オレ女やってやっから
小木 オッケオッケ
    [女役の矢作がワインを飲んでいる。
    詐欺師の小木は、ワイングラスを揺らしながら矢作に近づく]
   「あのう、貯金額のほう教えてもらいたいんですけども」
矢作 まずいよね、まずいよね それまずいよね
小木 まずいって言われてもさ、
   こっちはさ、お金のない人騙してもしょうがないわけじゃん
矢作 ん、そりゃそうだけどぉ、
   いきなり貯金額はって言われてもそれ答えないと思うよ
小木 あ、そう
矢作 もうちょっと考えたほうがいいんじゃない?
小木 ああ、わかったわかった
矢作 うん
小木 「あれ? いくらぐらい貯金ありましたっけ?」
矢作 [首をひねる]聞き方の問題じゃねんだよ
   「あれ?」って言われたらオレ「え、500万ですけど」って
   つられて言うと思ったか
小木 んー、言わない
矢作 言わないだろ? 
   言わないことは言わないで いい?


この下線部のように、一度「男と女」という設定をしたにもかかわらず、「待て、それはまずい」「普通はこうでしょ」という修正を入れることができる。漫才は、普段の二人の役柄に、さらに話題のなかでの設定を加えることもできるので、二重構造性を備えているのだ(正確には「ボケ役」「ツッコミ役」も役柄なので、素の語り手を入れると三重構造をなすともいる)。

 しかし、サンドウィッチマンにいたって、このルールは無視された。それはたまたまかもしれない。もともとコントをやっていた二人だから成しえた方法かもしれない。サンドウィッチマンは、一度設定に入ると、二度と「修正と提案」をすべく設定を解除する方法をとらず、最後まで「設定のなかの役柄としての会話」が続く。


伊達 いろいろ興奮することあるけど、一番興奮するのは
    急いでる時される街頭アンケートだね これ間違いないね
富澤 「あのー、ダイエット中すいません」
伊達 「してねーよ、別に ただ歩いてるだけだよ なんだよお前」
富澤 「アンケートにご協力お願いできませんか」
伊達 「いま忙しいんだよ ほかあたってくれ」
富澤 「渋谷で10代の女性を中心に聞いてるんです」
伊達 「一個もあてはまってねーな! 
    六本木で俺30代だからさ 渋谷へ行けよ渋谷」
富澤 「別にだれでもいいんです」
伊達 「だれでもいいんかよ」
富澤 「もし問題でもあれば音声も変えますし、目のところにザイモクも」
伊達 「モザイクだよ なんでお前、目のところに材木はめて
    アンケートに答えてるんだよ、カメラもねーしよ」


「ダイエット中すいません」で「そんな呼び止め方ねーだろ」と素に戻ってつっこむこともなければ、「失礼だろ、普通はすいません、でいいだろ」とか言わない。
 このネタのメッセージは、「修正すら無駄な言葉」というメッセージである。
 設定をフリにしているのであれば、あとはテンポよく、フリのいらない、そのまま続けられるボケしか選択しない、ということである。「それアンケートじゃねえだろ」のような、設定を覆すボケをしない。この修正の削除を条件に、ボケの選択肢をせばめることの代価に「手数」の担保を得たわけである。
 一見、新しいことをなにもしてないように見えながらも、もうあれ以上ないと思われた漫才コントの局地、つきつめた方法論でサンドウィッチマンは、「新しさ」をも手に入れた。コロンブスの卵だ。これに比べるとキングコングのネタは古かった。古いは古いでいいのだけれど(むしろ私もこっち派だ)、M-1向きではなかったかもしれない。「またこのパターンか」の予定調和としてのお笑いは、あの場では要求されていなかった。

 しかし、このサンドウィッチマンの漫才コントは、もはや漫才とコントの境界線すら曖昧にさせたことで、いよいよ「漫才コント」の改良の余地を狭めたともいえる。
 だから今後は「王道的漫才コント」にゆり戻しは少ないと思う。むしろしゃべくりのほうがまだ余地がありそうだ。
 そうして出てきたのが、ナイツである。
 一人が、お客さんに語りかける。しかし5秒に一回は「言いまつがい」をする。ツッコミは巧みに拾う。短い言葉でもう一度笑いをとりにいく。テンドンも盛り込む。ひとつのボケで二回の笑いを回収できる経済性をつきつめていくと、ナイツのスタイルにいきつくのは時間の問題だったのかもしれない。
今年、ナイツがM-1の決勝の舞台にいないのであれば、私は同業者として(毎年二回戦落ちだが)疑問を抱くだろう。
時代を象徴する漫才、そこまでナイツはきていると思う。

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By 話題
2020-09-06 04:47:29
このDVDは凄いです。全部が凄いのですが、特に紳助がNSCの生徒に向けて開いたセミナーは感動ものです。そのDVDの名は、

「紳竜の研究」

 これは2枚組のDVDで、一枚目が故・松本竜助を追悼するような内容で、実は一回しか見ていません。それと紳助のセミナー。これが凄い。このセミナーだけで私なら50万円は値を付けても惜しくないです。二枚目は紳竜の漫才。それに副音声でB&Bの島田洋七が解説をつけていて、それも凄いです。ただ、これは漫才サイドの話なので、直接的なインパクトは乏しいです。それでも、見続けているといろんなことがわかると思います。そしてやっぱり紳竜は面白いです。ただ、同じネタが続いているので、もう少しいろんな年代の漫才を収録して欲しかったですね。
 
 そもそも私は物心ついた時から紳助が好きでした。昭和55年の漫才ブームも覚えているのですが、私の周囲(小学生の)はB&Bやツービート、ザ・ぼんちなどが人気ありました。なぜならその人たちにはギャグがあったから。B&Bは「もみじまんじゅう」、ツービートは「コマネチ」、ザぼんちは「そうなんですよ、A地点から」など。正直言って小学生の頭では彼らの早口の漫才にはついていけません。でもギャグはわかるし、そこで笑えばいいこともわかります。学校で真似もしやすいです。ただ、紳竜にはお決まりのギャグはありませんでした。不良っぽい紳助がひたすら早口でまくし立ててるだけ。でも、それに笑うのが「かっこいい」と小学生の頃は間違いなく思っていました。そして時々、おばあちゃんに聞くのです。「島田紳助ってだれ〜?」、と。すると決まって「アゴのしゃくれたブサイクな奴や」という返事が返ってきたので、それを聞いて何度も笑うのです。ですので、私にとって島田紳助とは、「アゴのしゃくれたブサイクな奴」が早口でまくし立ててるだけの印象で、ただそれだけで笑って、そして紳竜が出てきたら意味もわからず見続けていたのです。今思えば、私の早口も小学生時代にさかのぼるのかもしれません。

 その後、大学生になって、確か横山やすしが死んだ辺りだったと思うのですが、再び紳助に火が点きます。当時やっていた紳助メインの番組はビデオにとって見ていました。特に好きだったのがEXテレビとBLT。どちらかと言うと、アングラ系の番組でしたが、その方が紳助の面白さが出ていました。サンデープロジェクトなどは特に見ていませんでした。昔、11PM見てて、もうちょっとや〜と思ってクライマックス迎えた瞬間、画面が変わって大橋巨泉に顔面シャワーなんてセリフは完全にネタなのはわかるのですが、そういうトークが紳助の面白さでした。それも即興で出るのですから凄いです。

 ま、それはそうと、このDVDの話。どこから話していいのかわかりませんが、本当に凄い内容です。特に起業家は必ず見ないとダメですね。むしろ自分を向上させたい、悩んでいる、そんな起業家がこれを見ると目から何枚も鱗がはがれおちるでしょう。私がそうでした。まだこれは見始めて5日くらいなんですが、最初は息するのも忘れるほど、没頭してしまいました。これは100回は見るか聞くかすると思います。こんなに没頭したのは加賀田晃DVD以来です。本当に。私はいつも、一つのことにはまりこんでしまいます。ですが、これがいいと思っています。「はまる」ということは、それだけ自分のものになりやすいということ。今、これを書いているそばからmp3でスピーカーに流して聞いています。やばい、聞き入ってしまう。

 何から話せばいいのかわかりません。いろいろあり過ぎて。もちろんここで詳しく話すのも反則だと思うので、あくまでこれを見た上で、私の視点から話すべきなんでしょう。まず一つは紳助は「努力の天才」だということ。紳助は自分で「努力していない」と言いますが、普通の人が必死で努力しないとできないことを、そんなノリでやってしまうところが天才なのです。例えば「さんま」という人は天性のお笑い芸人です。オール巨人もある意味漫才の天才かもしれません。しかし、紳助は決してそうでないと自覚しています。本当は面白いのです。ですが、自分は「天才」ではないので、戦略的に笑いを創っていくしかいないと自覚します。

 このDVDでは紹介されていないのですが、紳助がまだ高校生の頃、ボクシングをやっていて、試合の前にムエタイの真似をして舞を踊っていたら、上からすごく叱られた、、みたいな話を素人として高校の時にテレビで言ってたそうです。それを見ていたのが当時のオール巨人。「こんなおもろい奴がおるんや」と思ってたら、吉本の先輩にその人がいた、なんて話を聞いたことがあります。つまり、紳助にしてももともと面白かったのです。天声の笑いの才能はあったと思います。しかし、紳助はそれに加えて分析と戦略があったのです。だから紳助はオール巨人よりも、中田カウスよりも、大木こだまよりも、売れに売れてるんです。

 まず紳助がどんな努力をしたかと言うと、吉本に入ってコンビを組むまでの間、自分で面白いと思う人の漫才を徹底的に研究したと言います。例えば海原千里(現・上沼恵美子)の漫才を劇場に見て行って、一番前でこっそりテープに録音して、それを帰ってから一言一句すべて書き起こして分析していたそうです。時間もはかり、どこで受けるのか、一分間にどれくらいの間があるのか、など、とにかく徹底的に研究したんだそうです。すると笑いには一つのパターンがあり、それをシステム化して一つの教科書を作ったのです。そして「この通りにやれば売れる!」という確信を持ち、それに見合った相方を探し、それが松本竜助だったわけです。ちなみにM1グランプリの審査員はよく人選されていると思います。すべて紳助が認める人。島田洋七、松本人志、オール巨人、中田カウス、上沼恵美子など。松本は別として、紳助が若い頃、心酔したような人たちばかりです。松本にしても、紳助が漫才を辞めようと決意させられた人物。

 そして紳助が吉本に入門する前、自分の手本として定めたがB&Bの島田洋七。洋七に近づくため、その師匠である島田洋之助に入門したという徹底ぶり。そして洋七の側にいて、徹底的にモデリングしたというのです。その結果、自分にできる笑いのシステムが発見されます。あの当時、B&Bのスタイルは非常に斬新だったそうで、まさしく次世代の主流をいく漫才スタイルだったのです。そのB&Bも名前は忘れましたが、ある先輩漫才にひらめきを得てあのスタイルを築きました。つまり2人のうち一人が一方的に早口でしゃべって、相方はうなづくことでリズムを整える。このシステムを紳助が真似たのです。そして東にはそれと同じことを考えている人間がいて、それがビートたけしでした。つまり、B&Bにはそのモデルがあったのですが、同じくしてB&Bをモデルとしたのが紳助・竜助でありツービートだったのです。そしてその3つが漫才ブームをまさしく牽引したのです。ある時、その3つが東京で同じ舞台に立つ機会があり、そこで紳助とたけしが初めて会います。たけしはこんなことを言ったそうです。「B&Bに似てるね」、と。その時、紳助はそれを認めながらも心の中で「お前もやろ〜!」と思ったそうです。

 つまり「売れる」には理由があるのです。特に「笑い」をコンテンツした場合、「売れる」にはそのためのシステムがあり、それを取り入れたのが当時の3つの漫才コンビだったのです。これはビジネスにおいても全く同じです。この観点から見ると、なぜ「鏡の法則」や「夢を叶えるゾウ」や「ツキを呼ぶ魔法の言葉」が売れるのかがわかります。なぜ会計士の書いた本が次から次へと売れるのかわかります。その理由を今はここでは書きませんが、私の中ではおぼろげながらその姿が見ています。後はそれを証明すればいいだけ。やります。

 話を戻しますが、紳助が徹底的にモデリングしたその手法ですが、何かに似ています。NLPにそっくりです。NLPはミルトン・エリクソンという天才セラピストのシステムをリチャード・バンドラーとジョン・グリンダーがモデリングして体系化した方法です。その際、バンドラーはまさしくエリクソンのセッションを録音して、それを紙に書いて、そして分析したと言います。徹底的に。するとシステム、仕組みが見えてきます。そしてそのシステムの通りにやれば、エリクソンと同じような結果を出すことができた。まったく同じです。

 ただ、バンドラーが他の大勢と違うのは、彼は模倣と分析の天才だったこと。それは紳助も同じなのです。紳助はB&Bや売れている漫才からそのシステムを盗み取り、それを自分流に活かしただけ。しかし、それは誰にでもできることではありません。紳助だからこそできた、とも言えるのですが、これを「お笑い」ではなくその他の「ビジネス」に置き換えても同じことが言えると思います。実はどの世界でも売れる人は、最初にそのシステムを見つけ、それを活用することができる人なのでしょう。

 ちょっと極端な一般化になると思いますが、文系と理系という考え方があります。飯を食うだけなら専門性のある理系の方が有利に思うのですが、実際、どの国でも昔から理系より文系の方が地位が上でした。それはなぜか。文系はシステムが作れるからです。理系はどちらかと言うと、細部には強いものの、全体のシステムを俯瞰する力が文系に比べて劣っていると言われます。もちろん、それはすべてではありません。あくまで傾向としての話です。それを証拠に大企業の社長や官僚には、理系がものすごく少ないです。「ホジュン」という韓国ドラマを見て知ったのですが、当時の朝鮮半島では、医者の身分はどちらかと言うと低かったみたいです。

 何が言いたいのかと言うと、大切なのは「システム」ということ。どの世界にもその世界で売れるための「システム」があり、売れている人は例外なくその「システム」を採用しているのです。それを紳助のように意図的に取り入れるか、さんまのように天性の勘で取り入れるかの違い。

 そのことをはっきりと認識できたことは、このDVDの最大の収穫です。ただ、このDVDはそれだけではなく、本当にいろんな示唆を与えるものです。何度も見て、何度も聞いており、その度に新しい発見があります。発見があるということは、私もまだまだだと思うのですが、とにかく今は徹底的にこのDVDのコンテンツを吸収して、自分のものへと昇華したいと思っています。

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By 話題
2020-09-06 04:48:35
今の芸人にとって、「この番組で決勝に残ること」が文字通りの登竜門になっている気がします。普段漫才は見ないけど、クリスマスイブの前日にだけはM-1を見るという人が少なからず存在するからなのでしょう。普段見ない人をも巻き込んだ一大イベントという意味で、M-1は完全に日本の年末の風物詩だと言えると思います。

紳助は、紳竜の研究 [DVD]の中で、


世の中はすべて才能。

ただ、努力してみなければ才能があるかどうかはわからない。

だから、やってみないかん。


と言っているのですが、自分の才能を信じ、それを証明するために死ぬほど努力して頑張っている姿というのは胸を打つものがありました。

今年の出場者たちを見ていて気づいたのは、例年よりもきちんとしたスーツを着ている人たちが多かったなぁということ。これは、「衣装から考えなあかんわ」、という紳竜の研究 [DVD]の中に出てくるアドバイスに、芸人たちが従ったからなのかもしれないな、と思いました。。例年はダラっとしたスーツを着ていたトータルテンボスが、コンビ結成10年目の年にピシっとしたスーツを着てやっていた漫才が一番胸に刺さりました。


[この人はすごい]M-1の日に、「紳竜の研究」を見た


『たけしの誰でもピカソ』で断片的に見てはいたから、おおよそどんな内容かは知っていたのだけれど、それでも紳竜の研究 [DVD]は凄かった。


まず、出だしからNSC(吉本興業の養成所)の生徒に対して、

「大前提として、世の中はすべて才能。俺は努力なんかしていない。」

という言葉を投げつけ、その後も挑発的な言葉を連発する。

しかし、その言葉は「成功する確率は限りなくゼロに近い」という現実を残酷に伝えるためでも、「努力すれば必ず大丈夫だ」という夢と希望を抱かせるためでもなく、彼の経験に裏打ちされた「本当のこと」を伝えるために真摯に選ばれたものであるように思えた。


彼がデビュー前から漫才コンビを解散するまで一貫して取り続けた戦略というものは、シンプルかつ強力で、


自分の強み(X)を徹底的に探す。

自分がおもしろいと思うものをいくつか探す。紳助の場合、それはB&Bの島田洋七だったらしい。そこで彼は洋七と同じ師匠について、洋七がおもしろいメカニズムを分析して、パクった。ただ単純にパクるだけでは、圧倒的にネタが面白いB&Bには勝てないのだから、洋七にはない「本人のおもしろさ」を前面に出して勝負しようと決意。この分析から、「弱い不良」というキャラを演じることになる。
世の中の笑いの流れ(Y)を分析する。

自分がおもしろいと思う芸人の話を隠し撮りし、紙に書き写して分析した。その結果、当時、漫才の名人と言われていた人は1分間に20個の間をとっていることがわかった。これは高度な漫才技術なのだが、どうせ客にはこの高度さはわからない。「下手でもおもろかったらええ」わけなのだから、間の数を10個以下に減らして、スベるリスクを減らす戦略をとった。
ターゲットを選定する。

「万人に受ける笑い」こそが優れた笑いであるとされた時代において、ターゲットを狭く絞って、その代わりその層から強く支持されるポジションを取ることを選ぶ。そして、「20〜35歳の男」という自分たちを歳の近い世代をメインターゲットにすることに決めた。

今でも"お笑い好き"を自称する若い女性は多く、この層は「簡単にキャーキャー盛り上がってくれてくれるありがたい存在。」

しかし、笑いをわかっていない彼女たちを安直に笑わせにいった瞬間に、コアターゲットである「20〜35歳の男」の心を逃してしまうので、「若い女のファンは俺たちをダメにする」として警戒していた。「客席にいる女のためじゃなく、茶の間に座っている若い男に向けて漫才をしていた。」らしい
勝てないフィールドでは勝負をしない。

いつでも全力投球ではなくて、勝てない現場には行かなかったり、ターゲットではない客層には手を抜いたりした。

若い男性がターゲットなので、自分たちが若くなくなったら潮時だと初めから考えていた。

結局、コンビ結成から8年後、まだ無名だったダウンタウンの漫才に新しいお笑いの潮流(Y)を感じ取って、「今のままいったら、いつか必ず負ける。だったら負ける前に辞めよう」と決意して解散した。




という4つ。もうこれはお笑いに限らず、どんなフィールドでも有効な作戦だろう。




漫才コンビ解散後、紳助は漫才を始める前から計画していたTVの司会業を目指す。

そこで生き残るための「張ったり」術は相当テクニカルなのだが、簡潔にまとめると


一分野だけめっちゃ詳しくなり、脳ではなく心で覚える。

知っていることしか喋らない


というもの。

「他人が知っている事を知っている必要はない」し、「本で読んだことは絶対に忘れるのだから自己満足」という彼の主張は、小さい頃から自分も思ってきたことなので腑に落ちた。
彼が言っていたことで印象に残ったのは、


俺は成功したから、お前らが手にすることのできない全てを手に入れた。

ただ、若さと、将来の夢の大きさだけはお前らに負ける。

これが今手に入るなら、俺は十億払ってもいい。

と、いうことはお前らは今、十億持ってるってことや。


という最後の言葉。

人生の成功体験をこれほどまでに正直に表現し、夢しかない若者をこれほど勇気づける言葉を僕は他に知らない。

XとYを見極めて、この「十億」を何に投資するか真剣に考えようと思った。

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By 話題
2020-09-06 04:49:06
以下のブログの記事が話題になっているっぽいのですが、僕が知らなかったことや疑問点が多いので、感想を述べてみる。

『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか? 昨日の風はどんなのだっけ?



経緯や目的は、全く問題ないが


彼らが『M-1グランプリ』で証明したことは、漫才とは個々のボケが重要なのではなく、全体の流れで見せる芸である。ということです。


えっと、それは漫才だけでなく、コントでもピン芸でも同じでは?
そもそも、ネタにおいてボケが重要と考えるのは、初心者的な考え方だと思います。(インディーズレベルでよく見るベタに間違った漫才は、ボケたらツッコんでという流れの漫才です。)

そして、「全体の流れで見せる芸」というのも、多分そう見えるのでしょうけども、そうではなく、ちゃんとした軸やテーマ、システムで笑わせていることが高ポイントに繋がるのであって、全体の流れは関係ないと思います(ある意味流れでもあるのですが)。
もっと言うと、一本の軸で笑いを作っている方が評価されて、ボケ・ツッコミをしているだけのものは評価が低くなります。(一般の人にはちょっとわかりづらかったり、勘違いされそうだけども、これも詳しくいつか述べます。)


そして2003年以降は、そういう漫才しか、『M-1グランプリ』で優勝していないのを、「俺たちのM-1は革新的な漫才を評価する大会じゃなかったの?」と騒いでる方々には見えていない。

そもそも「革新的な漫才というのは何?」という疑問が僕にはあるんですけどね、単純に自分が好きだったけど、評価されなかったり、世間が面白いと認めていないことを、単に革新的と言って、評価しなかった人を皮肉っているだけなんじゃないですか? という疑問は僕はいつも残っています。


革新的かどうかの基準って結構簡単だと僕は思っています。単純に「今までにあったかどうか?」だと思います。ただ一般の人は沢山ネタを見ているわけではないので、それが革新的かどうか、新しいかどうかがわからないだけかと。
という意味で、笑い飯さんがWボケを作ったと勘違いしている(シャンプーハットさんが先)というような主張には同意です。(M-1の番組でさえ、そういうナレーションをしていたような。)

ただ、基本的には審査員にとって、今までにない漫才の評価は高いはずだと思います。
例えば、ブラマヨさんは松本さん、高須さんが言うように今までにない、自分たちで作り出した笑いという意味で高評価なはずです。


フットボールアワーはM-1を前にして、「漫才とは会話(の演技)で成立させる4分間のショートストーリー」である、という定義を掲げて漫才作りに挑んで


これは、フットさんがそういう定義を掲げて漫才作りをしたと言ったというような引用元があるのでしょうか。
というか、ショートストーリーと言っても、漫才というより、漫才コントなんですけど、そのような定義を掲げて漫才を作ったのでしょうか。僕としてはかなり違和感があります。


客を選ぶ「並列的な漫才」ではM-1は勝てない

ネタを全体の流れではなく、設定がお題となって、お題に対して一つずつボケを出していくような、個々のボケやフレーズで勝負するネタは、お笑い業界では「並列的なネタ」という、やや否定的なニュアンスを込めた言い方で呼ばれています。


「並列的なネタ」という言葉は初めて聞いたのですが、大阪あたりでは使われるのでしょうか? 僕の方では「羅列ネタ」という言葉がよく使われていました。

プロの間では、羅列ネタが評価が低いのは、その通りと思います。
ただ、


この「並列的なネタ」というのは、劇場や普通のネタ番組などで披露する分には良いけれど、賞レースなどでは評価されないから、やるべきではないと長く言われ続けています。


こんなこと誰がどこで言っているのですかねぇ。
羅列ネタが評価が低いのは、ネタを作るのが楽だからで、劇場でもネタ番組でもM-1でも関係なく、評価は低いと思うのですけども。


これは一つの理由に、先ほどから書いているように、お笑いを見慣れていない人には、伝わりにくいということがあります。


これも初めて聞きました。
羅列ネタってエンタや若手でかなり使われる方法ですけど、伝わりにくいのですかねぇ。


ストーリーのネタがいいのか?
残念ながらこれは違うと思います。


これ以降、このフットボールアワーの提示した「漫才とは会話(の演技)で成立させるショートストーリー」という漫才が、その後のM-1における漫才の基本になっていきます。それはどうしてなのか? ということです。

『M-1グランプリ』は吉本興業と、大阪の朝日放送が主催者で、発起人は大ブームとなった漫才ブームの牽引者の一人で、現在テレビタレントとして売れっ子の島田紳助です。この三者が考える「日本一の漫才師」という定義は何でしょうか? 花月とテレビの漫才番組の両方で大トリがとれる漫才師こそが、「日本一の漫才師」と考えるのは、自然なことではないでしょうか?


その島田紳助さんが、ストーリーはいけないと言っていたりします。

ちなみにM-1の大会委員長である島田紳助さんは、以下のDVDのdisc1「M-1の戦い方」というチャプターでM-1での勝ち方を語っています。

#M-1の審査を語る人は見ておかなくてはいけないと思います。

紳竜の研究 [DVD][画:ir]

(ちなみに、TSUTAYAとかレンタルでは貸していません。芸人目指す人は、確実に見るべきです。お笑い好きでなくてもアマゾンの評価のコメント通り、ビジネスマンでも学ぶことが多いのでお薦めです。)

紳助さんは
「短いネタの作り方な、ストーリーにしてはあかんねん。」
「納得したものになんねん。物語に。流れはきれいやねん。おもろないねん。」

と言った後にネタの作り方を述べていきます。
まぁ、1回戦の2分のネタの作り方の話をしているのですけど、4分でも2分はそのままでそれを延ばしてという感じで話をしています。

#ちなみにコントでもストーリー志向より、プロット志向の方がいいと別役実さんの本には書いてあったかと
別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン[画:ir]

なのでストーリーじゃなくて、笑いを取るためのシステムが審査としては重要だと僕は思います。そのあたりは、ちょっとさらっと説明できないので、また漫才のネタの作り方というエントリーなどで書いていきたいとは思います。[編]合格者の傾向としては、とにかくカンペなど に頼らず台詞をきちんと覚えて、聞き取りや すい言葉で、ある程度会場全体に聞こえる声 量で噛まずにやれば、合格できるんじゃない でしょうか(笑)。いやホンマにR-1の一回 戦ってそのレベルですよ。 それが出来ているのに落ちた人に関しては、 設定や演技にお客さんを無視した独りよがり なところがあったり、人前で試すこともしな かったんだろうなというネタを持ってきたか どっちかですよね、というか友達にも見せら れないものを、お金払って来ている他人様に 見せようとするな(笑)、M-1の時の前田政 二の審査コメントではないですが、お客さん の前で演る以上は、一度は他人に見せて反応 を確認したネタをやりましょうよ、トップク ラスのプロでも付いてる作家とかぐらいには 一応見せてやらやってるもんだと思うから、 頼むからお願いします。

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