企画二月 [返信する] 分析、とか。 By 管理人。 2008-02-02 08:41:54 詩から、詩人に触れてみる。 詩人から、人にふれてみる。 その背景の中で。 憶測と分析。 910SH [編集] By xxxxxxxxx 2008-02-05 05:07:11 宮沢賢治というヒトを語る上で欠かせないのが、 彼は「法華経」の熱心な信者だったということです。 彼は仏教の思想に基づいた、あるべき世界の様相のイメージを、かなりはっきりと持っていたようなのです。 彼は宇宙をひとつのコロイド( link:ja.wikipedia.org )と見做していました。この詩の前に載せてある「真空溶媒」では、大気をコロイドと考えたような節があります。 だからこの壮大なコロイドに対し、この詩では、極ちいさなコロイド世界(?)を描いたということが推測されます。そしてそれは、つまり彼の世界観に関係があるということです。 この作品の様子を簡単に言ってしまうと、 「御影石の石臼(らしい)に溜まった水(雨水?)の中にいる一匹のボウフラ(らしい)が、カラダについた気泡でもがき苦しむ(ボウフラは空気中に出すと死ぬ)様子が、様々なアラベスクの飾り文字のようだった」 ということです。 ここで少し単語整理。 【蠕虫】 環形生物。多細胞微生物。 ボウフラは正確には含まれないが、 「アンネリダ」には含まれる。 【舞手】 踊り手。 【水ゾル】 その下にあるように、 寒天(寒天は「ゲル」)より少し ゆるいもの。要は水。 「コロイド」という彼の世界観に 関係するものと思われる。 【ナチラナトラ】 造語。意味は不明。 ナチュラルに関係ありか。 【水晶体・鞏膜】 眼の部品。 【ひいさま】 姫様、の幼児語。 次に、作中の「語り手」について整理します。 ・宮沢賢治本人(括弧外の一段高い文) ・括弧内の謎の(蠕虫とはまた違う)語り手 この二者が交互に語るようになっています。 二者のやりとりの大枠を見てみます。 宮沢賢治(以下、甲)と謎の語り手(以下、乙)は、途中まで蠕虫舞手の踊りを美しく見る、という点で意見(?)が一致しているようです。 しかし途中から甲は、その現実の在り様を語るようになり、乙と意見が食い違います。 最後、甲は蠕虫舞手を嘲笑し、乙は最後までこれを敬い、擁護したカタチで終わります。 このときの二者の「ことにも」の意味合いの違いも、注目に値するでしょう。 ここからは私見です。 この蠕虫舞手に、彼は自分の姿を見たのではないでしょうか。 美しい舞手のつもりでいるけれど、実際は醜い蠕虫のもがき苦しむ様。 だから乙は、そんな自分を必死に擁護する自分です。 この石臼の水溜りのコロイドを宇宙と見て、そこに踊る蠕虫を自分に見立てたというわけです。 それからそれを見る自分というのもあります。 仏教徒であり、「六道」を本気で信じていたらしい彼には、蠕虫はどう映ったでしょうか。 恐らくは、「畜生道」に位置する、果てしなく下位の存在として、こうはなりたくない、という存在として映っていたと思います。 ですから、ここには、この蠕虫舞手を嘲笑できる自分、という、高慢な自分もあると思うのです。 更に穿ってみれば、それは、こういった自覚のある自分の、同じような状態で自覚の無い他者に対する嘲笑であるともとれます。 この場合、蠕虫舞手のポジションは一般他者にスライドするということです。 加えて、蠕虫舞手は、仏教徒の彼にとっては、「救うべき衆生」であるということもあります。 これを彼は、殆ど嘲笑しているのです。 ここには、救うべき衆生に対する、救えなさ、を感じたということが顕れているとは考えられないでしょうか。 愚かで蒙昧な自分。 自覚を持った高慢な自分。 救えない衆生(ここには自分もはいるのか)。 こういった思いが錯綜し、重なり合ったのが、この作品ではないでしょうか。 ちょっと穿ちすぎか。笑 pc [編集] [1-10表示] [返信する] [新規トピ] [戻る] |