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妹 必死で逃げた綺羅は,家に帰っていいか迷った。 彼は負けない。彼は強い。彼が,自分以外の人間にどうにかされる等あり得ない。 邪魔モノがなければ……。 ――兄ならきっと自分を追って来てくれる……。 負ける筈ない。 ……まだ,来ない? 引き返そうかと思った。だが,絶対に駄目だ。絶望にも恐怖にも似た感覚で,身体は動かない。引き返しては駄目。 彼は強い。だから,私の背を押した。なのに引き返したりしたら。 彼を,否定したことになる。 彼の力を,言葉を,信頼を,絆を裏切る。 駄目,絶対に駄目。 彼は裏切りを絶対に許さない。 彼は何も信じていない。己自身と,絶対的関係にある私以外。絶対……その言葉の揺らぎは,全ての揺らぎに通じる。その先には何がある?何もない。無,だ。 綺羅は手を握り締めた。何もない,空気の手応えが,虚しい。彼の手を握れば,安心出来るのに。 もう1度だけ,振り返る。 追う者がないのを確かめると,のろのろと,次第に早く,走り出した。 大丈夫。彼は絶対に死なない。私が約束を守る限り,彼もそう,返してくれる。約束には約束を。信頼には信頼を。そう,今は,逃げる。 ……!! 噎せ返るような甘やかなニオイが,鼻をつく。 びくんと身体を震えさせたが,立ち止まらない。不安がそうさせた。確信がそうさせた。ぽたぽたと,音がしそうなくらいに瞳は潤み,涙が零れる。 身体にまとわりつく,怖くてたまらない,けれど安心するニオイに似た,けれど絶対的に違うニオイに目眩がした。 不安からくるものか,愛しさからくるものか,分からない。恐らくは,両方。 彼の,彼自身の血が体外に流れ,外気に触れたニオイがした。 嘘!! 嫌!!嫌!! 彼が血を流した? 傷を受けた? そんな……。 先程見た,彼によっていとも簡単に動かない“モノ”と成された,男の姿が過った(よぎった)。 死は,紛れもない恐怖。 あの血は彼が流させた,彼が生きている証の。 だから安心した。怖くてたまらないけれど,安心した。 この血は? 彼が……斬られた……? そんな筈ない。そんな筈は……。 ガチガチと歯が噛み合わない。凍えるような身体は,けれど足を止めることなく走り続ける。 怖い。 戻りたい。 怖い。 駄目,戻っては駄目。 走り続ける先に何があるかは分からない。 けれど,引き換えそうものなら,結果は分かり切っている。 拒絶。 彼を信じなかった私を,絶対に許しはしないだろう。 それが何よりも怖かった。 違う。そんなことじゃない。 何で私は怖がっているの? 何で彼が信じられないの?今迄は盲目的に信じていられたのに……!! どうして?どうして怖いの?何を怖がる必要があるの?彼が私の全てなのに……! 会いたい。会いたいよ。側に居て,抱き締めて。頭を撫でて。 思えば,“恐怖”らしい“恐怖”というものを体感したのは,これが初めてだったのではないだろうか。 今迄は,どんなに怖くても,彼が側に居てくれた。だから安心出来た。……今は? 初めて知る“恐怖”という感覚に,恐怖する。 ……動かなくなった両親。 動いていた者が,動かなくなる恐怖。 暖かかった者が,冷たくなっていく恐怖。 動かなくなって,戻らない。冷たくなって,戻らない。2度と,戻らない。 訳が分からなかった。今迄,死と言うものを間近に意識したコトはなかった。 食卓に上がった魚が,既に死んでいるコトは知っている。叩き潰した蚊が,死んでしまうのは知っている。けれどソレ等の死が,自分に襲いかかる可能性というものは,何故か頭にちらとも過らないでいた。……無意識に秤にかけていたのだろうか。魚や,虫のちっぽけな体をちっぽけな魂と軽んじていたのだろうか。……幼い頭では,初めて身近な人が死に,初めて死を身近に感じるコトしか出来なかった。 後ずさると,ぴしゃんと音がして赤黒い血が跳ねた。生温く素足にまとわりつく。 ……キモチワルイ。 今迄両親の身体の中にあったものだ。両親の一部だ。なのに,今は気持ち悪くて仕方ない。蒼白に立ち竦む綺羅の手を,兄の手が取った。躊躇わず,走る。妹の手を引き,力強く,けれど優しく導く。綺羅は,夢中ですがり付いた。 ……!! 私には,彼が居る。彼が,側に居てくれる。 綺羅は,必死に手を握り返した。暖かい。生を,実感した。瞬間,両親の姿が幻影としてちらつく。 ……!! ……嫌……!! ああ,そうか。 彼が死ぬコト,彼と共に居られないコトが,怖いのだ。 産まれた時から,傍に居た。 離れたコトは,1度もない。そう,1度だって……。 今でさえこんなに,震えが止まらない。ましてや,この先――彼と居ない私なんて,想像も出来ない。 他の何からも,恐怖からも守ってくれる兄が居ない。だからこの恐怖に,果てはない。 ……!! 戻りたい。戻りたくない。 会いたい。会ってはいけない。 真逆(まぎゃく)の言葉が渦巻いて,頭が割れそうに痛い。 頭の中が,目の前が,真っ紅に染まる。 ――……っ! 何かにぶつかった。 視界は未だ血の色に染まり,視認出来ない。 暖かい料理と,お茶と,安価な化粧のニオイ。 ――女の……人……? あれあれ。どうしたんだい。そんなに慌て……。 聞こえてきたのは,やはり女性の声だった。母くらいの齢と思われる,躊躇いがちの,優しい声。 ……あんた!!怪我してるのかい!? 続いて焦る声が聞こえる。怪我?怪我なんてしていない。兄が,私を守ってくれたのだから。 目の前の女性がしゃがみこんだのは,気配で分かった。 草履履きの足に触れている。 それも,どこかぼんやりと壁の向こうのコトのように現実味はない。視界は未だに一面の紅だから。 あの時ちゃんと草履も履いた。裸足で駆けそうだったけれど,目先の手間を惜しんでいたら,後々困ると咄嗟に思い直し,身に付けたのだ。だから地面で擦れたりもしていない。傷を負い失速するというコトもなかった。 ああ,血が……! 血?それは私の血じゃない。 両親の……。 血……。 ――!! 倒れた両親と,兄の幻影が,血色の視界にくっきり描かれた。 ――あぁあ……ああッ!! お嬢ちゃん!? 声を上げて泣いた。 血の……血のニオイがする……。 ――違う!兄は死んでいない! 私を逃がしてくれた。再び会う為に。だからまた一緒に居られる。私が此処で,生きているのがその証拠。 ――死んでいない! 安心させて!他の男の血のニオイなんて嫌!私に染み付いた貴方のニオイが消えてしまう! 貴方のニオイが欲しい! 風で仄かに運ばれた彼の血のニオイを,刷り込むように身体を掻いた。 “アレ”のニオイも染み付いてしまう。嫌で嫌で気持ち悪くて仕方なかったけれど,手を止めるコトが出来ない。象徴的な死のニオイでも,紛れもない彼が生きていた証でもあるのだから。 頭の中で何度も名を呼んだ。声を上げて泣いた。 女性が何かを必死な様子で言いながら綺羅の手を取る。何で止めるの。邪魔をしないで。私から奪わないで! 触れた女性と自分の手に,ぬるりとした感触があった。これは何だろう。一瞬の疑問を置いて,女性の手を振り払うと無我夢中で両手を動かした。 ガリッ。 ポタ。 ズルッ。 ポタ,ポタ。 音が聞こえる。けれどやはり壁の向こうのコトのようで,構わずもがいた。 ふつりと,視界の紅が途切れた。けれどやはり,何も見えない。一面眩しいくらいの白で,覆われていった。 もう1度名を呼んだ。 もしかしたら,声に出していたかもしれない。 重く,重く何かがのし掛かってきて……。 意識は,途切れた。
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